『檸檬』が呼び起こしたもの

擦り切れた畳の上で泣いている母が見える。伏せた顔の右側には影になっていても分かるほど大きな青あざがある。それを、そんな母を、めぐみはどうすることもできず、ただ黙って見守っている。

しばらくして立ち上がった母はやけに背が高く、めぐみは自分が子供の姿であると気づく。

台所で顔を洗った母は居間で化粧を始める。顔の痣を隠すようにファンデーションを厚く塗り、泣いたせいで赤くなった目元をごまかすようにアイラインを必要以上に濃く引いていく。

めぐみはその様子をただ見ている。行かないで、と母にかけようとした声は音にならず、喉のなかほどでほどけてしまう。

やがて母は立ち上がる。最後に柑橘類の果物の香りがする、少し酸化してしまった古い香水を四回、自分に向けて振りかける。そうして母は出て行く。

丈の短いワンピースドレスの上に安物のダウンを羽織り、足をいじめ抜くためだけに設計されたようなピンヒールを履いて。母は出て行く。まだ幼いめぐみを家に残し、夜の街へと出かけて行く。

目を覚ますと、手足が痺れたように重かった。

和仁はとなりで健やかに眠っている。起こそうと思って手を伸ばしたが、枕元で電源コードにつないだスマホが示す時刻は、まだ5時半を回ったばかりだった。

枕の下から、開かれたまま背幅を天井に向けている『檸檬』があった。

めぐみは昨日、和仁から読み終えた本を借りて読んでいたことを思い出す。ページをびっしりと埋め尽くす文章の応酬は、それだけですでにめぐみにはハードルが高く、また古い小説だからかやや古風な言い回しも格式高いように感じられ、文字が視界をすべっていくばかりで内容はほとんど頭に入ってはこなかった。

お気に入りだと言っていた和仁には申し訳ないが、どうやら読んでいるうちに寝落ちしてしまったらしい。

いつもの起床時間まではまだ時間があった。とはいえもう一度『檸檬』を手に取る気にはなれなかった。考えてみればタイトルがよくない。あんな夢を見たのもそのせいだろう。

めぐみは気だるい身体を起こし、顔を洗いに洗面所へと向かう。スリッパが見当たらず、裸足で歩くフローリングはやけに冷たい。

鏡の前に立ち、めぐみは自分の頬がぬれていることに気づく。目はほんのりと赤く、まぶたはいつもよりも腫れぼったい。

夢で泣くなんて――とは思ったが、そんな自分のふがいなさを笑い飛ばす元気は湧いてこなかった。

●『檸檬』を読み、恵が夢の中で思い起こしたのは実家で共に母と過ごした日々だった。かたわらにいたのは、よそに女を作るだけでは飽き足らず何かにつけ暴力をふるい、借金まで作った父だった。それでも母は父の借金を返すため昼も夜も働き続けた。めぐみはまるで父に依存するかのような母を軽蔑し、実家を出たのだった。嫌な夢を見た……。そう思うめぐみに和仁が告げたのは予想だにしていない申し出だった。後編:【「苦労ばかりしている母を見ていられなかった…」14年前に家を出た娘が気づかないふりをし続けた、母親の本当の気持ち】にて詳細をお届けする。