<前編のあらすじ>

めぐみは文学部出身の夫・和仁のすすめで、1932年3月24日、31歳で夭逝した小説家、梶井基次郎の短編小説『檸檬』を手に取ってみる。

読書は20年ぶりのめぐみにとって『檸檬』は難解だった。

内容はとても頭に入ってこなかったのだが小説にたびたび登場する「檸檬」は、めぐみが記憶の奥底にしまっていた母との思い出を呼び起こした。

前編:顔のあざを隠すためファンデーションを塗り、娘を一人家に置いて夜の町へ…1冊の本が呼び起こした母と娘の記憶

めぐみの過去とは

めぐみに母と過ごした記憶がほとんどないのは、昼も夜も働きづめの母は家を空けていることが多かったためだった。

めぐみの家には借金があった。全国を駆け回るトラックの運転手であることに加え、よそに女を作っているせいでほとんど家に寄りつかず、時折ふらりと帰ってきては母が稼いだ金を毟り取ってギャンブルに出かける父が作った借金だった。母は返しても減らない借金をそれでも律儀に返すため、昼も夜も働き続けた。めぐみをほったらかして、働き続けた。

中学生のころ、家で暴れるだけ暴れ、壁に穴をあけ、めぐみの給食費の入った茶封筒を奪った父が去っていったあと、めぐみはどうして別れないのかと母に訊ねたことがある。

いや、あれはほとんど懇願だったように思う。別れてほしい、自由になってほしいという娘から母へ向けた願いだったように思う。だが、スナックに出勤するための化粧をしていた母はめぐみを睨み、鋭く尖らせた声で言った。

「何馬鹿なこと言ってるの。あんなでもね、めぐみの父親なんだから」

めぐみは何も答えなかった。ただ、母のことを哀れだと思った。娘の父親だと言いながら、母はあの男に依存していた。だから甲斐甲斐しく、あの男が無責任に作ってきた借金を懸命に返しているのだと思った。そのおかげで、めぐみの上履きが真っ黒に汚れようと、ブラウスの袖が足りなくなろうと、給食費をきちんと払えなかろうと、母には大して重要ではないのだと思った。

母は柑橘類の果物に似たにおいのする香水をいつも通り4回振って、出かけていった。家のなかに残り続けるさわやかで甘い香りが我慢ならなくて、めぐみは家じゅうの窓を開けた。

めぐみはその日以来、母を軽蔑するようになった。母のことを不気味だとすら思った。そして自分は絶対に、母のような誰かに寄りかかって生きる人間になるまいと心に誓った。