夕方のキッチンには、炊きたてのごはんの湯気と、味噌汁の出汁の匂いがゆっくりと満ちていた。

郁美は火を弱めてから、壁の時計を見上げた。午後5時を少し回ったところだった。スマホには、娘・葉月からのメッセージが残っている。

「今日のバイト、ラストまでだから遅くなると思う」

「分かった。帰り気をつけてね」

郁美はつい画面を見返してしまう。

この春、専門学校に入ってからというもの、こうした連絡が急激に増えた。学校の課題、友達との約束、アルバイト。部活をしていた高校のころより、ずいぶん帰りが遅くなっている。

甘えん坊だった娘の変化

郁美は食器棚から茶碗を2つ出しかけて、1つを戻した。葉月が食べるかどうかは、聞いてみなければ分からない。以前なら、帰ってくるなりスクールバッグを投げ出して、「ママー、なんか食べるものある?」と真っ先に聞いてきたものだった。

そのころは、お金のことでもよく声をかけられた。

「ねえママ、お小遣いちょうだい」

「えー、なんでよ。この前渡したばっかりじゃない」

「だって、全然足りないんだもん。ちょっとでいいから。ね?」

「何買うの」

「化粧ポーチ、新しいのほしいんだよね。あとハンドクリームとリップも。今月は莉奈の誕プレも買わなきゃだし、ほんとヤバいの。お願いママ」

甘えたようにねだってきた葉月を思い出し、郁美は小さく息をつく。

今はバイトをしているからか、そういうことは、ほとんど言わなくなった。

玄関脇に置かれたスポーツブランドの白いスニーカー。洗面所の見慣れないヘアオイル。椅子の背にかかった真新しいトートバッグ。郁美の知らない、葉月の持ち物が少しずつ増えていく。

夫と別れ、シングルマザーになって早10年。葉月も成長したのだな、と嬉しく思う反面、頼られなくなるのは少し拍子抜けでもある。ぼんやりとそんなことを考えていたそのとき、スマホが震え、葉月からまた連絡が入った。

「家着くの、11時過ぎると思う。ママ先に食べてていいよ」

「了解。先に寝てるかもしれないから、そのときは自分で温めて食べてね」

間を置かず、「はーい」と片手を挙げたパンダのスタンプが返ってくる。気の抜けた返事に、郁美は口元をゆるめた。子どもっぽさが、すっかりなくなってしまったわけではない。

「まあ、18歳ってそんなもんだよね」

コンロの火を止めながら、郁美は誰に聞かせるでもなくつぶやいた。

子育てが一段落したことへの安堵と、娘が自分の手を離れてしまう寂しさ。その両方が胸の内でせめぎ合うのを感じながら、郁美は1人分の夕食を食卓へ運んだ。