夕食のあと、珍しくリビングで古い文庫本をめくっている夫に目の和仁が留まった。
普段、SEとして働いているせいで忘れていたが、そういえば彼は学生時代、文学部だったことを思い出す。めぐみが覗きこんでみると、表紙には『檸檬』と書いてあった。
「珍しいね。何の本?」
めぐみが尋ねると和仁が顔を上げる。
「梶井基次郎の『檸檬』。大正から昭和にかけての、日本の小説家だね」
「へぇ」
普段、ネットニュースとアプリで読めるヒマつぶしの漫画以外の活字にほとんど触れないめぐみにはそう言われてもよく分からず、聞いた割には失礼な、気のない相槌が喉を揺らした。
「神経衰弱や借金を抱えて鬱屈とした毎日を過ごしてる主人公が丸善にレモン爆弾を仕掛けてやったって空想する話なんだけど、なんか高校生のときに初めて読んでから、ずっと無性に好きなんだ。だから毎年、檸檬忌――3月24日の梶井の命日には、読み直そうって決めてて」
少し恥ずかしそうに話す和仁から視線を外し、めぐみはふと冷蔵庫に貼り付けてあるカレンダーを見る。なるほど。たしかに今日は3月24日だ。結婚して、つまり一緒に暮らすようになってから半年余り。
通じ合っているようでいて、まだまだお互いに知らないことはたくさんあるんだなと、当たり前のことをぼんやりと思った。
「もうちょっとで読み終わるから、めぐみも読んでみる?」
正直なところ小説なんて小学生のときの夏休みの宿題である読書感想文以来なのでおよそ20年ぶりだったが、彼が好きなものを知りたいと思ったから、めぐみはうなずいた。