<前編のあらすじ>
孝道は妹に乞われ、脳溢血で倒れた父の見舞いのため実家に向かっていた。3年前に定年退職したこともあり、時間ができた。久方ぶりの帰郷となったことの表向きの理由だが、原因はほかにあった。
孝道は父のことが嫌いだったのである。礼儀作法や規律に人一倍厳しかった父は、何かにつけて孝道を怒鳴り、ときには容赦なくせっかんをすることもあった。
感謝することはあっても決して父のことは好きにはなれない。そんな思いが孝道を実家から遠ざけていた。
そして孝道は父と再会する。
介護用ベッドに横たわる父。衰えぶりは否が応でも分かった。うまく言葉を紡げない孝道は、何とはなしにこう切り出す。
「何か食べたいものある」
「あんぱん」
そうして、孝道は近場で手に入れたあんぱんを持ってくるのだが、父は「これではない」と特に理由を告げることもなくあんぱんをはたき落としてしまうのだった。
善意をないがしろにされ、怒りがこみ上げた。とともに厳格だったはずの父のあまりの衰えぶりに孝道は困惑してしまう。そして実家を後にするのだが……。
前編:「これじゃない…」せっかく買ってきたあんぱんを叩き落とし、“厳格だった父”の衰えに還暦越えの息子が感じた困惑
天皇御用達のあんぱん
東京に戻った翌日、妻の料理の音を聞きながらなんとなく見ていたテレビで物価上昇のニュースが流れていた。
『……原材料費や労働コストが上昇しています。特に食品業界では小麦や乳製品、食用油などの価格が高騰し……』
「お米も高いし、勘弁してほしいわよね」
「ああ、そうだな」
キッチンから聞こえる妻の声に生返事をする。たしかに色々なものが値上がったような気がする。昨日帰省したときに買ったあんぱんだって、昔は120円もしなかっただろう。
「食パンなんてついこの前まで、100円そこらだった気がするのに、今じゃ150円くらいは当たり前なの。ほんと、どうなっちゃうのかしら」
妻がため息をつく。
老後に向けた貯金はそれなりにあるし、年金も今のところはきちんともらえるが、身体が元気なうちに再就職でもして少しでも稼いでおいたほうがいいのだろうか。物価の上昇は今に始まった話ではない。昔は国が豊かになっている象徴のようでもあったが、今やただ国民の生活を圧迫する悩みの種でしかない。
そんなことをぼんやりと考えていたときだった。不意に父の声が孝道の脳内によみがえった。
『俺たちが子どもの時分はな、10円であんぱんが買えたんだぞ』
母が家計のやりくりに頭を悩ませるたび、父はそう言っていた。子どもながらに母が言いたいのはそういうことではないだろうと、聞きながら思っていた。
なぜ父はそんな毒にも薬にもならないことばかり言っていたのだろうか。それは家でも朝ごはんやおやつ替わりによくあんぱんが出されていたからだ。
孝道が小さい頃、家にはよくあんぱんがあった。父が月に1度ある東京出張のたびに、土産として買って帰ってきていたからだ。言うなれば、あんぱんは家族でちょっと贅沢をするときの思い出の品だ。
そう思い至るのと、妹に電話をかけるのは同時だった。長いコール音のあとに出た妹は「珍しいね」と驚いていたが、孝道は開口一番に用件を告げる。
「昔、親父がよくあんぱん買ってきてただろ。あれ、どこのあんぱんだったか覚えてるか?」
『あったね。懐かしい。どこだったかな……でもお父さん、「天皇陛下御用達のあんぱんだ」とか言って得意げだったよね」
孝道は短く礼だけ言って電話を切った。「あんぱん 天皇御用達」と検索窓に打ち込めば、答え合わせはすぐに済んだ。
銀座にある老舗のパン屋。
どうやらその店は今も変わることなく営業を続けているらしい。父の言っていた「あんぱん」とはきっとこのあんぱんに違いないと思った。