確定申告……

響いていたシャッター音と、瞬いていたフラッシュがはたと止まる。

「しげちゃん、ちょっと前髪直せる?」

カメラマンである青山の指示がとび、茂樹は乱れたモデルの前髪を手早く直す。青山は茂樹と同世代のフリーカメラマンで、美容院勤めしていたころから交流のある人物だ。

茂樹が髪を整えて脇にはけると、撮影が再開される。青山はモデルを褒め、褒められるたびモデルの表情やポーズが研ぎ澄まされていく。

「一旦休憩しましょうか!」

やがてスタッフからの声がかかると、張り詰めていた現場の空気は一気にほどける。大きく伸びをしていた青山と目が合った。

「おつかれさん」

2人はスタジオのすみに腰を下ろしてコンビニの弁当と缶コーヒーを広げる。お互い忙しい身なので、こういう食事にもすっかり慣れたものだ。

「そういえば、しげちゃん、フリーになってもう半年くらいだっけ?」

「ああ、まあそんくらいかな」
「調子はどうよ?」 

「もっと苦労するかと思ったけど、怖いくらいには順調だな。サロンワークも間借りしてやってるし、こうやって青山くんが仕事回してくれるし。ただ、暇な時間があると不安になるんだよな。だから休みなく、ほぼ働きづめって感じ」

「おいおい、無理すんなよ? 身体壊したら元も子もないし、奥さんだって心配するだろ。しげちゃんとこは、子どもはいないんだっけか?」
「いないいない」

「じゃあ奥さんサービスしてやったほうがいい。時間やスケジュールの融通が利くのがフリーのいいとこなんだからよ」

とはいうものの、茂樹は休んでいる自分をイメージするとゾッとする。きっと、ああこの時間働いていればいくら稼げたのにと思わずにはいられない。茂樹は不安を濁すように、ハンバーグの下で油まみれになっているパスタをかき込む。薄まったデミグラスソースの味がする。

「俺も独立前のフォトスタジオ時代はほんとに忙しくてさ、フリーになってからは家族と旅行にも行けるし、何より夕飯一緒に食える機会も増えたし、最高だよ。まあ、この時期だけは地獄だけどさ……」

「ん? 地獄って?」

「ほら、俺もまめなほうじゃないからさ。毎年領収書だなんだと書類集めに追われて大変なんだよ。カメラ周りの数字とか数値は平気なのに、金勘定になると全然だめ。毎年のことなのに、ほんと参るよ」

茂樹は口のなかの油をコーヒーで流し込む。いつもと変わらない微糖の缶コーヒーはどういうわけかいつもより苦い。

「ああ……確かに大変だよな」

「しげちゃん、ちゃんと確定申告の準備やってるか?」

「まあ、それなりに……」

「おいおい、大丈夫か? 俺も最初の年は適当にやってたけど、後から税務署から電話が来て、結局追加でガッツリ持っていかれたよ。お前も気をつけろよ」

「はは、もちろん」

青山は立ち上がり、口の前で立てた2本の指をひらひらと動かす。茂樹はポケットのなかにタバコとライターが入っている感触を確かめる。

実際のところ、確定申告なんてほとんど手をつけていない。領収書も財布やカバンや車のグローブボックスの中に無造作に突っ込んだまま。もともと書類整理は苦手だった。
青山の言葉は頭の片隅に残っていたが、何しろ確定申告の猶予期限はまだ長い。3月半ばまではまだ1ヶ月近く時間がある。

青山とともに外の喫煙スペースに向かった茂樹は、咥えたタバコに火をつけて頭のなかの靄を煙に巻くことにした。