何か楽しいこと、ある?

例によってぼんやりしていた冬美は、その音に驚き、しばらくしてからゆっくりと腰を上げた。ドアを開けると、そこには長女の真由子が立っていた。

「どうしたの?」

「お母さん、急に来てごめんね。ちょっと顔を見に来たの」

驚く冬美をよそに、玄関先で靴を脱ぐ真由子。

同じ市内で夫と2人の子どもたちと暮らす真由子は忙しい日々を送りながらも、こうして小まめに訪ねてくれる。彼女の気遣いがありがたくもあり、同時に申し訳なくもあった。

「忙しいんだから、無理しなくていいのに」

冬美がそう言うと、娘はにっこり笑った。そして何も言わず台所へ向かい、流し台の上を見回した。

「……お母さん、ちゃんと食べてる?」

唐突な問いかけに、冬美は少し言葉を詰まらせた。

食事はしていないわけではない。けれど、簡単なものばかりになっているのは確かだった。娘の目は鋭く、何も言わずともその事実を見抜いているようだ。

「まあ、それなりにね。あんたたちが来たときはちゃんと作るから」

言い訳じみた返事をしながら、冬美は冷蔵庫を開ける娘の背中を見つめた。彼女はため息をつきながら、買い物袋を取り出して言った。

「そういうことじゃないでしょ。お母さんが元気でいてくれないと困るの。せめて、ちゃんと自分のためにご飯を作ってよ」

冬美は肩をすくめ、小さく笑ってみせた。けれど、その笑みはどこか空虚だ。真由子はそんな冬美をじっと見つめ、少し戸惑ったように首をかしげた。

「ねえ、お母さん。最近どう? 何か楽しいこと、ある?」

「楽しいこと……ねえ」

小さくくり返しながら、冬美はぼんやりと窓の外を眺めた。

夕日が沈み、家々の窓に灯りが点る時間だ。その穏やかな景色の中で、冬美は答えを見つけられないままだった。

「そう、楽しいこと。やりたいこととかさ。お母さん、そういうのある?」

真由子の問いかけは静かだったけれど、その言葉のひとつひとつが胸に響いた。
やりたいこと。

もうずっとそんなものを考える余裕はなかった。子どもたちを育て、夫を支え、日々の生活をこなしてきた。それだけで精一杯だったのだ。

「……あんたたちを育てるのが、私のやりたいことだったわよ」

そう答えると、真由子は少し寂しそうな笑みを浮かべた。

「そうかもしれない。でも、お母さんの人生はそれだけじゃないでしょ?」

彼女の言葉は優しかった。

けれど、その優しさがかえって冬美の心を揺さぶった。

冬美の人生。

それは、家族とともにあったものだ。

それだけでよかった。

そう思ってきた。

だけど、本当にそれだけでよかったのだろうか。

●娘の一言に触発され、自分の人生を振り返る冬美。その胸に去来したのは若いころに抱いた夢だった。冬美は実現のため、動き出す。後編:【「大学に行ってみれば?」娘の一言で奮起した、夫を亡くしたシニア女性の新たな挑戦】にて詳細をお届けします。

※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。