野菜の下準備を始めたゆかりの耳朶を、玄関のチャイムが不意に打った。
台所の窓から見える空は薄暗く、屋内にいても寒さがじわじわと染み込んでくるようで、そんな日は鍋に限ると、夕食の調理を始めた矢先のこと。鍋はすでに今週に入って2度目だったが、温和な夫はゆかりが用意した夕食のメニューにあれこれ口を出すことはないし、最近口達者になってきた8歳の息子・翔太も、好きな具材を多めに入れておけば文句は言わないだろう。そんなことを考えていたところだった。
翔太は2階の自室にいるし、夫はまだ帰宅する時間ではない。
濡れた手をエプロンでぬぐったゆかりが玄関に向かい、ドアを開けると、年季の入った厚手のコートに身を包み、片手には買い物袋を下げた瑛子が立っていた。
「お義母さん……?」
「ああ、寒い寒い。あがるよ」
挨拶もなく、義母は土間に靴を脱ぎ捨てるようにして上がりこんできた。ゆかりは戸惑いながら、彼女の後ろで静かにドアを閉めた。
「お義母さん、今日はどうされたんですか? こんな急に……」
「あんた、あの子から聞いたよ。翔太に節分も教えてないんだって? 豆まきも恵方巻も、ちゃんとやるべきでしょ?」
義母は勝手知ったる様子でリビングのドアを開け、ダイニングテーブルの上に買い物袋を置くと、その中から恵方巻と福豆を並べ始める。ご丁寧に鬼の面まで出てくるのを見て、ゆかりは内心ため息をついた。
バスで30分程度の近場に1人暮らしをしている60代後半の義母には、昔から強引なところがあるが、去年義父が亡くなってからは特に、その偏屈さに拍車がかかっていた。
「でも、そんなことまでわざわざ……」
「そんなことじゃないよ、あんた。子どもの時分から、きちんと日本の行事を経験させておかないといけない。それが親の役目ってもんだ」
やんわりと抗議しようとしたゆかりの言葉は容赦なく遮られた。義母は少し鼻を鳴らして、テーブルの向こうからじろりとゆかりを見た。
「毎日似たような献立ばかりじゃダメ。その季節のものをいただかないと」
図星を突かれ、反論する気力もなくなってしまう。ゆかりは軽くうなずいてから台所に戻り、調理台に広げたままになっていた切りかけの野菜と空っぽの鍋を片付け、義母のために茶を淹れた。