年金、払ってなかったんだって
達郎が裕に切り出したのは、夕食が終わり、年末特集の音楽番組を見ているときだった。
「母さんから聞いたよ。年金払ってなかったんだって」
裕はそう言われた瞬間に一美のほうへ恨みがましい視線を向けたが、一美は気づかないふりをして皿を洗った。
「仕事も思うようにできてないんだろ?」
「なんでお前にそんなこと言われなきゃいけないんだ!」
身体に酒が残っていたこともあり、裕は声を荒げた。しかし、達郎は怯まない。
「俺だって好きでこんな話をするわけじゃないよ。父さんひとりの問題だったら口を出さない。でも、これは俺や母さんも巻き込む話なんだよ」
達郎は年金の制度や保険料を支払わないリスクなどについて、裕に丁寧に説明した。最初は不満げに聞いていた裕だったが、少しずつ顔色が変わってきているのが一美にも分かった。
「俺が見る限り、父さんがこれまでみたいにずっと働き続けられるとは思えない。自分でも薄々分かってるでしょ?」
達郎がそう言ったとき、裕はうつむいてしまった。一美は、こんなに弱気な態度の裕を初めて見た。自分の息子にここまで厳しく言われたのがよっぽど堪えているようだ。
「もうしばらく年金を払ってない。今さらじゃ遅いだろう」
「大丈夫。未納でも時効の範囲内だったら納付できるはずだ」
達郎は年金制度について裕に説明をした。未納でも時効である2年以内であれば、あとから納付ができる場合がある。どれくらいの未納期間があるかにもよるが、後からちゃんと保険料を支払えば国民年金を満額受給できる可能性もある。
「父さんはぜんぜん手遅れじゃないんだよ。母さんのためにも、ちゃんと保険料を納めて年金をもらおうよ」
達郎はそう言って、父親に優しく微笑んだ。一美はその笑顔をどこかで見たような気がした。それは、裕がまだ元気だった頃、毎日のように見せてくれていた笑顔とそっくりだった。
結局、裕は未納だった国民年金保険料を納付し、今後は毎月しっかりと保険料を支払うことに同意してくれた。
国民年金の納付履歴を調べた結果、裕には約1年8カ月分の未納期間があることが明らかになった。
納付しなければならない金額は約30万円にのぼった。決して少なくない金額だが、裕は預金を切り崩して納付を済ませた。家計はさらにギリギリになってしまうが、それでも払わずにこのまま生活を続けるリスクを考えれば、決して無駄だとは思わなかった。
ある日、一美がパートを終えて帰宅すると、裕がリビングで不動産の雑誌を読んでいた。雑誌の特集は『定年後の田舎暮らし』。表紙には、豊かな緑に包まれた一軒家のイラストが描かれている。
「どういう風の吹き回し? いつから田舎暮らしに憧れるようになったのよ」
「この前、コラムを書いた雑誌だよ。それに、憧れっていうか、俺もお前も若くないし、歳を取ったら生活費の安い田舎でのんびり暮らすのも良いかなって思ってさ」
裕は最近、以前のようによく笑う。そして「生涯現役」と口にしなくなった。コロナに感染したことや、息子に怒られたことで、裕の価値観も大きく変わったようだった。
「へぇ、いいじゃない。私、実は憧れてたんだよね。家も広くなるし」
一美は裕の隣に座り、雑誌を覗き込んだ。日本各地で田舎暮らしを送っている人の体験談が掲載されている。せっかく田舎で暮らすなら、新婚旅行で裕と一緒に旅をした北海道がいいなと一美は思った。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。