まだまだ人生は道半ば

この一件で我慢の限界を超えた憲二は、直美と昌一との縁を切る決断を下した。

もちろん、家族との絶縁など簡単なことではない。だが、憲二自身の老後の生活を守るためには、これ以上2人に振り回されるわけにはいかなかった。

妻の直美に対しては離婚を要求し、彼女が無断で使い込んだ分の資産を差し引いて、財産分与を申し出た。直美は離婚を拒否していたが、憲二の意志が固いことを知ると、最後には観念して要求を受け入れた。

昌一の方とは、役所で分籍の手続きを行った。無気力な顔をした息子は、憲二の絶縁宣言にも驚かず、素直に応じた。おそらく母親の方に渡った財産を当てにしているのだろう。

2人のこれからが気にならないわけではなかったが、それ以上にもう関わりたくないと思った。

持ち家を妻に譲った憲二は現在、賃貸マンションに住んでいる。およそ40年ぶりの独り暮らしはなかなかに大変で、料理も洗濯もろくにできなくなっていた自分にあぜんとしたが、1つずつ新しいことができるようになっていく感覚は新鮮で、楽しくもある。

最近は全国の神社仏閣めぐりに加えて登山も始めた。一心不乱に頂上を目指して歩き続ける登山は、老体に優しい趣味ではなかったが、厳しく険しい道のりであるほど達成感も大きかった。

「よし」

運動靴の靴ひもを固く結び、立ち上がる。リュックサックを背負い、帽子をかぶる。エントランスを抜けた憲二はまだ薄暗い空を見上げる。東の空の端がほんのりと黄金色を帯びている。

想定外の事態で家族を失った憲二だったが、後悔はしていない。まだまだ人生は道半ばだ。

複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。