誰もあんたに面倒見てくれなんて頼んでない
実家は駅から徒歩25分ほど離れた住宅街の一角にある。沙織の祖父の代から住んでいる2階建ての一軒家は古びていて、住めないこともないが、万が一の災害のことなどを考えると万全とは言えない。
自転車を止め、門扉を通り、玄関の鍵を開ける。家のなかは涼しいというよりも、ややほこりっぽく冷たかった。
「お母さーん。来たよ」
居間へ向かうと、母の達子が座ってお茶を飲んで、窓の外の庭を眺めていた。見てもいないのにつけっぱなしのテレビには、再放送のドラマが映っている。
「ああ、沙織。いつも悪いね」
「ううん。庭掃除しちゃうね」
沙織はリモコンでテレビを消した。庭はそこまで大きな広さではないが、柿や梅やツバキの木があったりして、ちょっとした庭園のようになっている。とはいえ、達子の体力が落ちてからはまめに世話をすることもできず、放っておくとすぐに雑草や枯れ葉で埋め尽くされるようになっていた。座って息をつく間もなく、沙織はベランダから庭へと向かった。
10年前に父が病気で亡くなって以来、達子は1人でこの家に住んでいる。4年前からは腎臓の病気を患い、週に3回、人工透析のために通院する必要があった。病院は昼間のうちにデイケアのヘルパーさんが連れていくことも多く、特定疾病の医療費助成制度を利用しているため、本来であれば月10万円以上かかる医療費は月に1万円の出費に抑えられている。しかし離れて暮らすのは万が一のことを考えると不安であり、家と職場と実家を往復し続ける生活は体力的にも時間的にも大変だった。
「お母さん、ちょっと相談があるんだけど」
沙織が満を持してそう切り出したのは、夏のあいだに生い茂った庭の雑草掃除を終え、お茶をしようかと家のなかに戻ったタイミングだった。
「もうこの家も古くなったし、お母さんも通院とか大変でしょう。だから私の家で一緒に暮らすのはどうかな。旦那もいいって言ってくれてるし」
老人ホームなどデイケア以上のサービスを使うには、経済的に心もとなかった沙織が考えた末の提案だった。
「何言ってんだい。そんな迷惑かけらんないよ」
達子は即答だった。一考するようなそぶりも見せずに言うと、もうこの話は終わりだと言わんばかりにお茶を飲んだ。
「どうして? 迷惑なんかじゃないわよ。絵里だって喜んでくれてるし」
中学生の娘の名前を出す。絵里はいわゆるおばあちゃん子だったし、達子も孫娘をかわいがっていた。しかし達子は頑固だった。
「気を遣わせるのなんてまっぴらなんだよ」
「だけど……」
「だけどなんだい?」
達子は細めた目を沙織に向けた。昔から頑固だった。まだこの家に住んでいた若いころ、一度言い出したことはなかなか譲らない達子と、こうして散々言い合いになったことを思い出した。
「何でもない。でも、答えはすぐにじゃなくていいから、考えてみて」
「分かってるよ。私の世話が面倒なんだろう?」
「そんなこと言ってない」
図星を突かれたようで、思わず語気が強まった。
「だけどね、私は何を言われてもこの家から出る気はないよ。年寄りの世話が面倒だって言うなら、来なきゃいいだろう。ヘルパーの山口さんのほうがよっぽど優しく面倒見てくれるんだから」
「なにそれ、どういう意味よ」
沙織は声音をとがらせる。
「そのままの意味だよ。こう週に何度も来なくたっていいって言ってるんだ。子供の荷物になる親なんてみっともないだろう」
「どうしてそんなこと言うの……」
「どうしても何もないさ。私はこの家から出て行くことはしないし、世話が面倒だって言うなら無理して来なきゃいい。誰もあんたに面倒見てくれなんて頼んでないんだから」
「ああそう、じゃあ勝手にしたらいいじゃない」
「もちろん。勝手にさせてもらうよ」
「もう知らない」
沙織はお茶を飲みほした。いつの間にか冷めていたお茶は、喉に引っ掛かってざらつくような気がした。
●沙織の提案をむげに断る頑固な母、何か理由があるのだろうか……? 後編【「誰もあんたに面倒見てくれなんて頼んでない」要介護の実母がかたくなに同居を拒んだ「驚きの理由」】にて、詳細をお届けします。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。