泣き出したいのはこっちだ
「ママー!」
小百合が大声で話しかけてきて、夕飯の支度をしていた理香子は思わずどきりとする。最近は長引く残暑や台風やらで大気が不安定なせいか、朝から頭が重かった。もう少し声を抑えてほしかったが、小百合に言ったところで分からないだろうと思った。
「……どうしたの?」
「おえかき!」
小百合は誇らしげに画用紙を渡してきた。小百合は絵を描くのが好きなようで、家でもよくクレヨンや色鉛筆を使って絵を描いていた。
「へえ、何の絵?」
「ぞうさんと、ねこさん!」
先日、幼稚園の遠足で動物園に行ったのだ。理香子も参加したので、そのことは覚えている。そのときの様子を絵にしたのだろう。しかし画用紙に書かれた絵を見て、理香子は言葉を失う。人らしきものと生き物らしきものがたくさん書かれているのは分かる。ただ、理香子にはその全てが異様に見えた。
まず理香子は、全面緑色の背景を指さした。
「これは何?」
「空」
次に理香子は茶色の鼻の長い生き物を指した。
「じゃあ、これは?」
「ゾウさん!」
最後に理香子は輪っかのようなものをはめた動物を指す。
「これは、ライオンさん?」
「ねこさん!」
猫ではなくライオンだが、広い意味では間違っていないと寛大な気持ちで大目に見る。しかしそれ以上に気になる部分があった。
「じゃあさ、この青いのは何?」
「おヒゲ」
理香子は大きく息を吐き出して、小百合を見つめる。
「ねえ、小百合、ちゃんと見た? ライオンのヒゲは青くなんてないよ」
しかし小百合は首を横に振る。
「ううん! あおかった!」
「そんなことないよ。ママも一緒にライオンさん見てたけど、青くなかったよ」
「あおかった! ママうそつき!」
理香子はスマホで検索したライオンの画像を小百合に見せる。
「ほら、これがライオンだよ。見て、おヒゲ青くないでしょ?」
しかし小百合は画像を見ようともせず、首を横に振る。
「ううん! あおなのっ!」
「青いのはお空でしょ? ゾウだって茶色じゃなかったよね? ねずみ色とかで書くのが普通なの。どうしてこんな変な色で描いたりしたの?」
理香子は必死に伝えようとした。しかし小百合は床をドンドンと踏んで、拒絶反応を見せる。
「ねえ、小百合、聞いて。お願いだから、もうちょっとだけ、ちゃんと絵を描いてほしいの。絵が好きなのはお母さんも知ってるから、だから、色使いとかを少し普通にしてくれるだけでいいからね?」
「あーっ! うーっ!」
小百合の叫ぶ声が、頭に響く。
「もう何なのよ! ママの言うことを聞かないで嫌な思いするのは小百合なんだからね!」
思わず理香子は怒鳴りつけてしまった。しまった、と思ったときにはもう取り返しがつかず、小百合はダムが決壊したみたいに大声で泣き出してしまう。
理香子は鈍く痛む頭を抱える。泣き出したいのはこっちだった。
●子育ての悩み、夫の無関心、理香子の心が晴れたきっかけはとは? 後編【「色使いが変でしょ?」発達の遅い娘の子育てに限界…キレる母親が驚いた“十五夜の日”の夫の思わぬ行動】にて、詳細をお届けします。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。