由美子もまた小説家を目指していた
二人でお酒を注文し、最初はぎこちない会話をしていたが、徐々に砕けた雰囲気になっていく。
「やっぱり『キミに行く』は不朽の名作だよね」
お酒も入り、上機嫌になった俺はメッセージでも何度もやり取りをした内容をぶり返す。
由美子も嫌な顔1つせず、付き合ってくれた。
「私も、あの本と出会ってなかったら、今とは全然違う人生を歩んでいたと思います。主人公、綾音の夢にひたむきな姿が、本当にすてきで……」
「俺も同じだよ。俺があの本と出会ったのは14歳のときだったけど、やっぱり夢に生きるっていうのが人生なんだってあの本を読んで思い知ったというかさ」
「私も一緒です。学生時代に出会えて良かったなって思います。働き出してから読んでたらまた違う感想を持ったかもしれないので」
由美子は現在、32歳とプロフィルに書いていた。となると9つも下になるのだが、名作というのはそんな年齢差も一気に埋めてくれる。
村尾は初めて、アプリで知り合った女性に確かな思いを抱くようになった。きっかけは母の病気だったこともあり、どこか義務感に突き動かされるように女性と連絡をしたり、会ったりしていた。しかし、由美子とは心からこれからも会って話をしたいと思っていた。
彼女になら見えを張らずに何でも話せた。きっと由美子も同じに違いなかった。酒もどんどん進み、心地よい酔いが全身をめぐった。
「いやぁ、俺も高橋薫子みたいな、ああいう小説を書きたいもんですよ。いや、俺は高橋薫子を超えたいんです」
村尾はため息を吐くように言った。高橋薫子とは、『キミに行く』の著者で、今も文学界の第一線で活躍をしている人だ。
「村尾さんも、ご自分でも書かれるんですか?」
「ええ、学生時代に文芸サークルで少しやっていて、ここ最近、少しずつまた始めたんですよ。とはいえ、仕事が忙しくて時間もなかなか取れないんですがね」
「働きながら書くのって大変ですよね。でも、高橋先生にお会いしたとき、『あなたは何があっても書き続ける人だから大丈夫』っておっしゃっていただけて、それが今もすごく励みになってるんですよ」
「え⁉ 高橋先生に会ったことがあるの?」
「ええ、新人賞の授賞式で」
「……は?」
村尾の酔いはあっという間に冷めていった。由美子は顔を傾けていた。
「どうか、しましたか?」
「新人賞?」
「はい、昨年度のモンタ社文芸新人賞の優秀賞を受賞したときに、ごあいさつさせてもらったんです。その賞の最終選考委員を高橋先生が務められてて」
村尾はもちろん、知っていた。村尾自身もその新人賞に応募しようとして、けっきょく作品の完成が間に合わず見送ったのだった。
「どうかされました?」
由美子は村尾をのぞき込む。目の前に、自分が獲るはずだった賞を取った新人作家がいる。その悔しさにも似た不愉快な感覚が頭を離れなかった。
「結婚するとなると、家事も育児もしなくちゃいけませんよね? そんななかでさらに兼業作家なんてできると思ってるんですか?」
「そうですね……大変かもしれません。でも家事も育児も2人で協力をすれば、問題ないですよ」
村尾は残念な気持ちでため息をついた。その態度があまりにあからさまだったからか、由美子は眉をひそめていた。
「まさかとは思いますけど、家事や育児は女性に、なんて思ってるわけじゃないですよね?」
由美子の声にはとがめるような色があった。村尾はいら立った。それが目の前の女に対する嫉妬心から沸き起こったものであることは自分でもうすうす感じていたが、そんな醜い後ろめたさは腹立たしさによって塗りつぶされていた。
「何か変ですか? そう思ってたら何なんですか? どうしてそんな非難がましい視線を向けるんですか?」
「非難するつもりはありませんよ。ただ、家事育児は全部女に、なんて考えは時代錯誤なんじゃないかなと思いまして」
時代錯誤、という言葉が胸に刺さる。学生時代に発行していたサークルの文芸誌に村尾が書いた短編小説を読んだ先輩たちの感想と同じ言葉だった。
「あなたの協力して家事育児をするっていう考え方が尊重されるのと同じように、俺の価値観だって尊重されるべきはずだ。それを、一方的に時代錯誤なんて言葉で切り捨てるなんてどうかしてる!」
「言い方が悪かったですね。すいません。でも私、生活や人生ってそういうものじゃないと思うんです。村尾さんは人ごとみたいに自分の生活と人生をパートナーに押し付けようとしてますけど、それって無責任ですし、すごく愚かなことだと思います。人生を自分で引き受ける覚悟のない人に、いい小説は書けないと思います」
飲みすぎたわけではない。しかし村尾は視界が急に狭まるのを感じ、思考は浮かべた先からほどけていき、もはや何も考えることができなかった。もちろん、机に5000円札をおいて席を立った由美子を追いかけることも、彼女に何かを言い返すことも、できなかった。