斎場内では、黒い服に身を包んだ老若男女が手を合わせて故人――春江をしのんでいる。
春江は72歳でこの世を去った。3年前の2021年に胃にガンが見つかり、そこから長い間入退院を繰り返しながら、治療に励んでいた。しかしそのかいなく、ガンは春江の体内で転移を続け、一昨日、眠るように息を引き取った。
実名子は親族席に座り、弔問客一人一人に深く頭を下げる。隣に座る夫の利喜は春江の遺影を見て、何度か目を拭っている。その都度、実名子は利喜の背中を擦る。
しかし実名子の目から涙は出ない。悲しくないわけじゃない。20年近く同居をしていたのだから、もちろん寂しさはある。ただどこか、ホッとした気持ちがあるのも事実だった。
実名子は春江とあまり仲が良くなかった。同居してからというもの、春江からは何かとしかられたり、注意をされたりという記憶しかない。両親にもあまり怒られずに育った実名子は、「こんなにも口うるさい人がいるのか」と驚いたのを覚えている。
実名子は同居生活を楽しくするために努めて春江と良好な関係を築こうとした。実際に距離が近づいたと思えたことだってある。しかしそのたびに春江から家事のことでしかられ、関係がリセットされていた。
いつしかお互いに干渉するのを止め、冷戦状態となり、関係が修復されないまま春江はあの世へと旅立ってしまった。
隣で泣いている利喜には、一緒に悲しんであげられないことを申し訳ないなと思いながら、沈痛そうな表情を作って葬儀が粛々と進んでいくのを見守っていた。