「それじゃあ、彩花。行ってくるよ」
夫の進が玄関先でほほ笑む。彩花はわずかに曲がった進のネクタイを直してあげる。
「いってらっしゃい。気を付けてね」
「あぁ、今日も早めに帰ってくるよ」
「うん、待ってる」
彩花は幸福感に浸りながら、進が会社に行くのを見送った。近頃の進は、驚くほど彩花に優しい。家を出るときに言葉を交わすことなんて新婚のとき以来だったが、ここ数週間ですっかり習慣化している。加えて会社帰りに同僚と飲みに行くことも少なくなり、残業がない日は真っすぐ家に帰ってきて彩花と一緒に夕食をとるようになった。
心なしか視線が合う回数も増えた気がする。以前はバッサリ髪を切っても何も言わなかった夫が、彩花がネイルを変えたことに気付いて褒めてくれたときは、さすがに驚いた。それだけ彩花に関心を持つようになったということだろう。
進の態度が変わった理由は分かっている。それは彩花がきれいになったからだ。彩花は少し前にプチ整形でヒアルロン酸注射の施術を受けていた。気になる顔の小じわにヒアルロン酸を注入してもらった。彩花はこれまで自分が美容クリニックに行くなんて考えたこともなかったし、40代半ばの自分は場違いですらあると思っていた。そんな彩花がヒアルロン酸注射に興味を持ったのは、友人・舞衣子の一言がきっかけだった。
「彩花も一回打ってみたらいいんじゃない?」
まるで「新作スイーツを食べに行かない?」とでも言うような軽い調子で、美容整形の話題を振ってきたのだ。舞衣子は大学時代からの友人で、同級生の間では若々しいと評判で、SNSで細々と美容についての情報を発信するインフルエンサーでもあった。
最初は「整形なんて……」と友人の誘いを断った彩花だったが、ヒアルロン酸注射の効果が一時的なものであることや、ダウンタイムも短いことが決め手となり、彩花は湧いてきた興味を抑えられなくなったのだ。
施術から1週間ほどで、完全に腫れが引いた自分の顔を見たときの感動は言葉では表しがたいものだった。加齢とともに濃くなっていた目尻の小じわやほうれい線がほとんど目立たなくなっていたし、涙袋にも注入したことで以前より若々しい顔を手に入れた彩花は、天にも昇るような気分だった。
それが彩花の自己満足でないことは、夫の進をはじめ周囲の人たちの反応が証明していた。周囲からの称賛が、施術を受けた自分の決断が正しかったことを彩花に確信させた。