県外の娘への電話
夜、台所の窓は結露していた。
しずかは食卓に書類を並べ、通院予定が書かれた手帳を開く。固定資産税の控え、保険の更新案内、店のシフト表。
壁の時計は9時を少し回っていた。博は向かいの椅子に座り、求人票の束を指でそろえている。
「それじゃあ、電話するね」
「ああ」
やはり娘夫婦には現状を知らせておきたいと頼むと、博はしばらく迷ってからうなずいてくれた。
どうやら投資に失敗したことで、気持ちが吹っ切れたらしい。彩香の番号を押し、呼び出し音を数えてから耳に当てた。県外に住む娘は、2回目で出た。
「もしもし。今、いい?」
「あ、お母さん? どうしたの?」
明るい声に、しずかは一瞬だけ言葉を選び直した。助けてと言いたいわけではない。ただ隠したくないだけだ。
「あのね、少し前にお父さんが仕事を辞めたの。急で驚いたと思うけど、体は元気。私も元気だから心配しないで。今は2人で次の仕事を探してるところ」
しずかは簡単に、ことの経緯を伝えた。
「黙っていてごめんね。彩香は県外だし、無理はさせたくなかったから」
「それはいいけど……お金、足りてるの? いくらか送ろうか」
「ありがとう。でも、大丈夫よ。余裕があるとは言えないけど、今すぐ困る状況ではないわ。必要が出たら、その時にまた相談するわね」
博が横で息を吸う音がした。しずかはスマホを少し外し、視線を送る。ゆっくりと電話を代わった博は口ごもりながら短く言った。
「その、あれだ……心配かけた」
しばらく他愛のない話をした後、娘は「話はいつでも聞くから」と言い、しずかは礼を言って電話を切った。スマホを置くと、部屋に静けさが戻る。隠しごとがなくなっただけで、胸の奥が少し緩んだ。
しずかは手帳に指を滑らせる。
「明日は午前中がお店、午後は面談。お店の方は、閉店まで残り少ないから、シフトも確認しておく。あなたは時間見つけて履歴書の写真を撮りに行ってね」
博が求人票をめくり、うなずいた。
「通院は来週の火曜。薬も切らさないようにしないと」
「じゃあ、その日は俺が送っていく」
「ありがとう。助かるわ」
そう言うとしずかは家計メモの端に丸を付け、鉛筆を置いた。
湯が沸く音がして、しずかは急須に湯を注いだ。2つの湯呑みからゆっくりと湯気が上っていった。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
