祐子はコンロの火を消し、鍋に蓋をした。玄関に向かい、壁付けのフックにひっかけてあるリードを手に取ると、それを目ざとく察知した愛犬のこむぎが薄茶色の体を揺らしながら尻尾を振って回り、娘の久実の膝に鼻先を何かをねだるようにこすりつける。
「よしよし、こむぎは今日もかわいいねー」
ローテーブルの前であぐらをかいて座る久実は、笑いながらこむぎを撫でるだけで、立ち上がる気配はない。
制服のまま、スマホとプリントの山に挟まれて、足元には消しゴムとシャーペンの芯ケースが転がっていた。床に広げられた単語帳には、マーカーが引かれた英単語がいくつも並ぶ。
愛犬の世話はいつも祐子…
「久実、そろそろ散歩の時間だけど」
「今、無理ー。今日はお母さん行ってきてよ」
「今日は? いつもそう言ってやらないじゃないの」
祐子が呆れて言うと、久実は顔だけ上げて「ごめん、また今度」と軽く返した。しかしまだ今度、が来たためしはない。部活だ、塾だ、友達だ――忙しいのはわかるが「自分で責任を持って飼う」という約束はどこへやら、久実の生活からこむぎの世話はするりと抜け落ちていった。その結果、餌やり、トイレ掃除、散歩といったこむぎの世話はおのずと祐子1人の肩にかかっている。
それに、犬を飼うことで生じる負担は、労力面だけではない。フードとシートで月1万円前後、予防の薬で2千円、年1回のワクチンや健診をならせばさらに数千円。月々で考えれば大した金額ではなかったし、そもそも折り込み済みでこむぎを家に迎え入れている。しかし、すべてが押し付けられた今、そういう些細な負担すらも不満と結びついてしまうような気がした。
「じゃあ、留守番よろしく。帰ったらすぐ夕飯だからね。それまでに、片付けといてよ」
「はいはーい」
玄関を出た瞬間、冷え切った空気が頬に刺さった。身を縮めた祐子とは裏腹に、こむぎの体は半ば弾むように進み始めた。
