隣人からの注意

夕方になり、部屋の狭さが少し増した気分になる。

テレビの電源を切ると、暗い画面に自分の顔がうっすら映った。灰皿とタバコの箱を手に取り、ベランダのサッシを開けると、冷たい空気が顔に当たる。外は冬の夜らしく澄み、向かいのビルの窓がところどころ黄色く光っていた。

1本取り出して火をつける。最初の一口を肺に入れると、鼻の奥がじんとする。

(息苦しい時代になったもんだ)

心の中でつぶやき、手すりに肘を置く。「やってはいけないこと」が年々増えていくのをどこか窮屈だと感じてしまう。

「あーあ……」

再び山下の顔がちらついた。

打ち合わせスペースで淡々と線を引いてみせたときの目つき。あれを責める気持ちは、もうほとんどなかった。彼なりに、自分を守る術を選んだだけなのだと思う。

本社の飲み会で握手を交わした夜と、家族との約束をすっぽかした夜が、頭の中で交互に再生される。

どちらも自分の歴史だ。

タバコを半分ほど吸ったころ、左隣の窓が開く音がした。人の気配が動き、サンダルの足音がベランダに出る。

「すみません」

若い男の声だった。

「はい?」

振り向くと、パーカー姿の男がベランダに身を乗り出して、間仕切りの向こうから申し訳なさそうにこちらを見ていた。

「あの……ここ一応共用部なのでタバコはちょっと……管理会社からも、喫煙は控えてくださいって言われてると思うんですけど」

「あ、ああ……そうですよね」

掲示板にそれらしい紙が貼ってあったことを思い出す。

「すみません、うちのがタバコ苦手で」

男の部屋から、テレビの音と笑い声が漏れてくる。自分とは別の時間が、薄い壁1枚を隔てて流れていた。一瞬「1本くらい、いいじゃないか」という言葉が喉まで上がるが、もう声にはできなかった。

フィルターをつまみ、灰皿のふちで火をもみ消した。じゅっと小さな音がして、白い煙が冷たい空気に溶けていく。

「いや、こちらこそ。申し訳ない」

「ありがとうございます」

隣人はほっとしたように頭を下げ、部屋の中へ引っ込んだ。タバコの残り香が霧散し、夜気の冷たさだけが、はっきりと肌に触れる。染川が手すりにもたれたまま空を見上げると、街の明かりが遠くにじんでいた。

※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。