夫の裕信が、夕食を終えたばかりのテーブルでノートパソコンを開き、家計簿アプリとにらめっこしていた。カタカタと小さく響くキーの音が、リビングの空気を引き締める。

食器を片づけながら、優子はちらりとその横顔を見た。眉間に寄った皺を見るに、たぶん光熱費のグラフでも見ているのだろう。

「今月、水道代が先月より700円多いな」

視線は画面から動かさず、低い声で呟く裕信。まるで健康診断の結果を告げる医師のような口ぶりだ。

「あー、洗濯物をまとめてやったからかも」

記憶をたどりながら答えると、裕信は短く「分かった」とだけ返した。
優子たち夫婦は共働きだ。お互い正社員で、収入は決して少なくない。それでも彼は、病気、事故、災害……あらゆる「もしも」の影に怯えている。

「備えあれば憂いなし」

この言葉を、優子は何度彼の口から聞いたかわからない。光熱費は毎月、前年同月比で比較され、少しでも増えれば原因を突き止める。食費はレシートごとに分類し、外食は半年に1回まで。映画館なんて何年も行っていない。夏の旅行も「お金がかかるから」と、近場の公園や美術館で済ませるのが恒例だ。

「優子、娘たちのお弁当のおかず、もう少し安い食材でもいいかもしれない」

シンクを拭いていた優子の手が、ほんの一瞬止まる。

「……今も十分節約してるつもりだけど」

「わかってる。でも、積もれば大きな差になるから」

その真面目な口調は、責めるというより守るためのものだとわかっている。

しかし、守られすぎると窮屈になることもある。高校3年の長女は、そんなやり取りを見ながら静かに参考書を閉じた。

「お母さん、今日のチキン南蛮、美味しかったよ」

わざと明るく話しかけてくれるのは、優子へのささやかな気遣いだろう。

「ありがとう。明日は何にしようか」

会話をつなぎながらも、胸の奥に重たい石が沈んでいるような感覚は消えない。
裕信は几帳面だ。家計簿は色分けされ、電気代や水道代の折れ線グラフは美しく整列している。だが整然とした数字の裏にある優子たちの生活は、どこか息苦しい。

この節約が、いつか娘たちの学費や家の修繕費に役立つ。そう信じている彼を、頭では否定できない。しかし心のどこかで、「現在の楽しみ」を削り続ける日々に疑問を抱いている。
この春高校に入ったばかりの次女がソファでスマホをいじりながら、ふっとつぶやいた。

「ねえ、たまには外食しようよ」

「ダメだ。無駄遣いはできない」
裕信が短く答えると、次女はわざと口をとがらせる。

「たまには楽したっていいじゃん」

次女を宥めながらも、優子の視線は自然と裕信の背中に向かってしまう。彼の節約は、家族を守るための盾のようなものだ。だけど、その盾は大きすぎて、優子たちの視界まで覆ってしまっている気がする。

夜風が窓を揺らし、カーテンがふわりと動く。ふと、その風のような自由さが、優子たちの暮らしにも少しだけ欲しいと思った。「お茶淹れる?」と声をかけると、裕信は一瞬顔を上げて「うん」と答え、再び画面に向かった。

湯を注ぐ音の向こうで、カタカタとキーボードが鳴るたび、優子はじわじわと首が絞まっていくような感覚に襲われた。