カードの支払いが

「梨香ちゃん、ごめん……お願いがあるんだけど」

珍しく暗い声の拓人が唐突に切り出したのは、そろそろ寝ようかという頃合いだった。

梨香は翌日のアラームをセットする手を止め、ゆっくり顔を上げた。

「どうかしたの?」

「ちょっと今月、カードの支払いが足りなくてさ。今回だけ立て替えてもらえないかなと思って……ほんとごめん」

そう言って肩をすくめる彼の顔には、バツの悪そうな表情が浮かんでいる。20代半ばまで音楽一筋で、最近イベント会社の契約社員になったばかりの拓人。薄給の上、貯金もほぼない。彼が金銭的に余裕がないことは最初からわかっていたため、家賃や光熱費などの固定費はほとんど梨香が払っている。

とはいえ、この手の相談をされたのは初めてだ。梨香は努めて平静を装いながら尋ねた。

「いくら?」

「7万円……」
正直、思ったよりも非常識な金額ではなくて安堵した。とはいえその安堵はそれだけの金額も払えないという情けなさとトレードオフだった。

「わかった。今回は立て替えておくね」

梨香がうなずくと、拓人は申し訳なさそうに「ありがとう」と頭を下げ、次に給料が入ったら絶対返す、と返済を固く約束した。

ところが――。

「梨香ちゃん、これ。この前立て替えてもらったお金……」

翌月、拓人が手渡してきたのは3千円。

「えっ……」

「あっ、違うよ。俺ちゃんとわかってるからね。残りはまた来月払うから待ってて……」

驚いて固まっていると、拓人は慌てて弁明した。たしかに今の彼にとって、7万円の一括返済は厳しいだろう。

「わかった。じゃあ、また来月よろしく」

しかしその後、返済に関する話題は、ぱったりと途絶えた。翌月もその翌月も、拓人は何事もなかったかのように過ごしている。かといって、お金を返す意思が全くないわけではないと思う。週末には友達と飲みに行ったり、仲間のライブに顔を出したりする一方で、平日も夜遅くまで働いているし、休日もイベントの手伝いやバイトに精を出している。

彼が努力しているのは知っている。それでも、少しずつ、心の中でもやもやが膨らんでいく。あのとき、きちんと「いつまでに返してね」と言えばよかったのだろうか。それとも、黙ってパートナーを支えるのが同棲カップルのあるべき姿なのか。

(やっぱり……催促したら嫌な顔するかなあ)

会社へ向かう電車の中、梨香は1人逡巡する。

今日も朝から弁当を作ってくれた拓人。「最高傑作かも」と嬉しそうに笑う彼の顔を思い浮かべると、弁当箱が入った鞄が妙に重たく感じられた。