煙草を吸おうとすると
「ちょっと煙草」
そう言って隆宏はベランダに向かおうとした。有給を取ると言えば、上司は多少渋い顔をするだろう。先々週も不妊治療のために有給を取ったばかりだった。
「ちょっとまだ話をしてるでしょ?」
「分かったよ。有給ね。取るから」
そう言って隆宏は煙草とライターを握りしめる。
「……妊娠できないの、煙草のせいだからね」
千秋の言葉に隆宏は振り返る。
「……は? 何だよそれ?」
「煙草を吸うと精子量が少なくなるんだって。それだけじゃなくて精子の形だって変形して、それが不妊の原因だって言われてるんだから」
関係ないだろと言いたくなったが言葉が出てこなかった。不妊治療を始めるとき、医者がそんなことを言っていたような気がするが、これまで大して気に留めてこなかった。
「あなたは16歳のときからずっと煙草を吸ってるでしょ? それでもう取り返しがつかないくらいに体が変になってるのよ。じゃなかったらこんなに妊娠できないわけないもの」
「……もしかして禁煙をしろと言ってたのって子供のためだったのか?」
千秋は呆れた顔でうなずく。
「……だったら言ってくれれば」
「妊娠だけじゃないわ。子供ができた後のことも考えて煙草はやめてほしいと思ってたの。それくらいは当然に考えてやめてくれると思ってたんだけどね」
千秋はそれだけ告げると、妊娠結果の紙を持ってリビングを出て行ってしまった。残された隆宏はベランダに向かい、いつもの場所で煙草を吸おうと咥える。
しかし、後はライターで火をつけるだけなのに、それができなかった。
ここが分かれ道のような気がした。だから隆宏は咥えていた煙草を元に戻し、10本以上残っていた煙草の箱を思い切り握りつぶした。