夜8時を過ぎていた。玄関のドアが開く音がすると、リビングで九九の宿題をしていた息子の優は逃げるように自分の部屋に行ってしまい、リビングは一気に静まりかえる。栄子は早足で玄関まで出迎えに行く。夫の勇悟はいつものように鞄を手渡してきた。

勇悟が検察官になったときに弁護士だった父親から譲り受けた鞄は、もうあちこちに痛みが出ているが高級感や威厳のある見た目をしていて、その分だけ重かった。
勇悟の家はいわゆる法曹一家というやつで、曾祖父の代からずっと裁判官や弁護士を輩出し続けてきた家庭だ。そのイメージに違わず、勇悟の父は非常に厳格な人で、勇悟の母は絵に描いたように内助の功を体現したような女性だった。

そんな家庭で育てられたからだろうか。勇悟は優にもとても厳しく、優はそんな父親を怖がっている節がある。おまけに、30代のころは出世を見越した地方への転勤も多く、長い間単身赴任をしていたこともあり、優との距離感はほとんど他人のようですらあった。

「ご飯できてるよ」

「ああ」

栄子の言葉に機械的に答え、勇悟は部屋着に着替えに寝室に行ってしまう。その間に栄子はリビングに戻り、テーブルに旬のタケノコご飯などの料理を揃え、椅子の上に渡された鞄を置いた。部屋着に着替えてリビングにやってきた勇悟は鞄から仕事の資料などを取り出し、中身を確認しながら食事をする。

食事のときくらい休めばいいのに、と思わなくもないが、食事の時間があまり遅くになりすぎないよう仕事を家に持ち帰っていることはなんとなく気づいているから、栄子は何も言わない。