大理石調のだだっ広い玄関で、桃花は宗弘の後ろ姿を眺めていた。グレーのスリーピースに身を包んだ夫は、優雅な仕草で靴を履き終えると、オーダーメイドのビジネスバッグを持ってこちらを振り返った。

「それじゃ、行ってくるよ」

低い声が響き、桃花は慌てて「行ってらっしゃい」と笑顔を作った。扉が閉まる音と同時に、家のなかはしんと静まり返る。

「ふう……」

リビングに戻ると、カップに残ったコーヒーを片手に、窓辺に歩み寄る。南向きの大きなガラス窓の向こうに見える街はあまりにも小さく、ジオラマを見下ろしているようだった。昔の桃花には、こんな高さに住むなんて考えられなかった。

桃花は今年で34歳になる。その人生はお世辞にもきらびやかなものとは言いがたい。実家は郊外にあって、両親は堅実な会社員とパート勤め。休日には家族でファミレスに行くような、ごく普通の中流家庭で育った。

そんな桃花が、経営者の宗弘と出会ったのは、友人の結婚式だった。背が高くて、知的な笑顔が印象的な人。彼の話すテンポや言葉の選び方が心地よくて、気がつけば何度も会うようになっていた。

結婚したのは去年の春。宗弘の会社は順調らしく、両親も資産家だと聞いた。社会的責任を果たすべきという意識が強く、家族で慈善事業やボランティアに積極的に取り組んでいるという。今住んでいる部屋は、雑誌でしか見たことがないようなインテリアと、天井まで届く窓が自慢の高級タワーマンション。毎月7桁の家賃が発生することを知ったときは、気が遠くなった。

もちろん暮らしは豊かで、何の不自由もない。

でも、この生活は私に合っているのだろうかと、ふとしたときに自分が場違いな存在のように感じることがある。棚に並ぶブランド食器、義母から譲られた宝石類、宗弘が仕事帰りに買ってくる花束。どれも洗練されていて美しいけれど、どこか「自分のものじゃない」気がしてしまう。

「ごめん、桃花。会食の予定が入ったから今夜も遅くなりそう。先に寝ててね」

空っぽのカップを持って物思いにふけっていると、宗弘からメールが入った。急に予定が入ることは、そう珍しいことではない。だが、どれだけ忙しくても、宗弘は小まめに連絡をくれるし、出来る限り桃花を優先しようと努力してくれている。

「わかった。気を付けて帰ってきてね」

簡単に返事を送ると、桃花はソファに深く沈み込んだ。

誰にも言えるはずがない。「この生活、ちょっと息苦しいんだよね」なんて。

豪華な部屋に浮かぶ孤独は、口にした瞬間にマウントに変わってしまうだろう。桃花の結婚報告を聞いて、冗談交じりに「玉の輿じゃない」と笑っていた友人たちの、羨望と軽い嫉妬を含んだ、あの視線を思い出す。

宗弘本人に相談することも考えたが、自分の中のわだかまりは、言葉にするには曖昧すぎて、うまく説明できる自信がなかった。

「……私、幸せなんだよね?」

なんとなく声に出してみた。しかし、その問いに答えてくれる人は、この部屋にはいない。静かすぎる室内に響くのは、時計の針の音だけだった。