はじめて覚えた悲しみ
実家を頼らず生活をすることができていた。
益実は通帳を軽く撫でる。
内職というものが、どれだけ稼げるのか分からない。ただコツコツ300万という額を貯金してくれていたのは、とてつもない労力だったというのは伝わってきた。
18で家を出てから30年近く、善子は益実のことを想い続けて貯金をしてくれていたのだ。
益実はこのとき初めて母の死に対する悲しみを覚えた。
「これね、300万入ってるわ」
ふと通帳から視線を上げると、優の目つきが鋭くなっていた。その蛇のような視線に、益実は少しだけ不快感を覚えた。
「で、どうする?」
「どうするって?」
「いや、そのお金。一応弁護士さんに相続の話をしたんだ。そうしたら、このお金の相続権は姉ちゃんにあるから、受け取らないならちゃんと相続放棄の手続きをしないといけないんだって」
「……そういうこと」
優はうなずいたが、益実の意味するところとはたぶん納得した部分が違うだろう。
要は優は、益実に相続を放棄させ、この300万を手に入れるためにわざわざ益実を呼びだしたのだ。
「そりゃあ、姉さんからすると今さらそんなお金を渡されてもね……。姉さんのために母さんがやるべき事はもっと他にあったわけだし、無責任っていうかさ」
益実はもう1度通帳の中身を確認しながら、色々な事を思い出そうとした。だがやはり母の顔すらもろくに思い出すことができなかった。
それはあの2人から自由になった証のはずだった。誰に頼ることもなく生き抜いてきた自分の努力の結果であるはずだった。だが今は、母の顔を思い出せないことがひどく寂しく、むなしいことに思えた。