お父さんはね、本当は優しい人なんだよ
最低の父親だった。
父の存在が家族をどれだけ苦しめてきたか、佳菜子は忘れようにも忘れられない。
物心ついたころから、家の中はどこか重苦しい空気に包まれていた。
原因は父の借金。若いころに友人の連帯保証人になったせいで、父は多額の借金を抱えることになった。母が夜遅くまで内職に励む姿は、今でも佳菜子の脳裏に焼き付いている。縫い物をする手が赤く腫れ、指先が血でにじむこともあったが、それでも母は決して弱音を吐かなかった。
「佳菜子、学校の勉強、頑張るんだよ。それが1番大事だから」
母の言葉にうなずきながらも、佳菜子は知っていた。優しい母がこんなにも疲れた顔をしているのは、父のせいだということを。
借金返済のために日雇い仕事を転々としていた父だったが、実際稼いだ金が家族のために使われることはほとんどなかった。家に帰ると不機嫌な顔で酒をあおり、空になった一升瓶をテーブルに叩きつけては、母に怒鳴り散らす父。
「こんなんじゃ全然呑み足りねえ!! 酒を切らすなって何べん言や分かるんだ!?」
酔っ払った父の叫び声に、幼い佳菜子と弟は震える手で耳をふさいだ。それでも声は家中に響き渡り、母の言う通り隠れるように押し入れの中で丸くなるしかなかった。
酒に酔った父は暴れて手に負えず、物を投げたり、食器を割ったりすることもあった。
母は佳菜子と弟をかばいながら、いつも黙って耐えていた。
「大丈夫よ、2人とも。お父さんはね、本当は優しい人なんだよ。今は少し、辛い時期だから、仕方がないんだよ」
そう言いながら、母が堪える姿を見るたびに、佳菜子はどうしようもない無力感に襲われた。
さらに、父のギャンブル癖も家族を苦しめた。
借金を返すどころか、少しでも手元にお金があれば競馬やパチンコに使ってしまう。しかも負けが込むたび、父の機嫌はさらに悪くなり、佳菜子たち家族に八つ当たりをする。
「家に金がねえのは、てめぇらのせいだ!! この金食い虫が!!」
そんな生活が続くうち、母はついに倒れた。
そして、二度と立ち上がることはなかったのだ。
医者からは「心不全」と言われたが、佳菜子には分かっていた。
父が母を追い詰めたのだ、と。
佳菜子は父を心の底から憎んだ。自分の半分に流れる父の血を恥じた。
だがいくら憎んでも、父は父だった。佳菜子は父を切り捨てることができなかった。
高校を卒業して働き、少しずつ借金を返した。父の次の怒りの矛先が自分に向いても母のように耐えた。
そんな折、取引先の営業マンだった夫と知り合い、恋に落ち、プロポーズされる・だが佳菜子には首を縦に振れない事情があった。だが夫は、涙ながらにわけを話す佳菜子の頭を優しく撫で、父の借金を返すためのお金を工面してくれた。
そうしてようやく、佳菜子は地獄から解放された。35歳のときだった。
借金を返し終えた佳菜子は、夫の勧めもあって父とは距離を置くことにした。しかしそれでも数年前、父が倒れたと病院から連絡があったとき、佳菜子は迷うことなく病院へ向かった。
弟は「あんなやつの葬儀には死んでも出ない」と頑なだったが、佳菜子は父の最期を看取った。夫も快く、父の看病をする佳菜子を支えてくれた。
だがどうしてそんなことができたのか、自分でもよく分からない。
父のことは変わらず憎んでいる。母を殺し、家族を壊し、佳菜子から人生を奪いかけた男を憎んでいる。
車を停め、深い溜息をつきながら実家の玄関を見上げた。
窓ガラスは薄汚れ、壁に走る小さなひびから名前も分からない草が何かを侵すように生えていた。
古びた鍵を回し、扉を押し開けると、渇いた音とともに埃のにおいが佳菜子を包み込む。