ただの役立たず
その日、里沙は本当に忙しかった。朝から5軒の病院を訪問し、夕方に会社に戻ったあとは新製品の勉強会に参加、さらに後輩の発注ミスが発覚してその対応に追われた。帰宅できたのは優に日付を回ったころ。頭の先から足の先まで、どっぷりと疲労感に浸かっている。
いつもなら早く帰って熱い風呂に浸かり、缶ビールでも飲んでぐっすり眠りたいと、駅から家に向かう気持ちは急いただろう。
だが里沙の足取りは重い。
それは疲れすぎているからというわけではなく、もはや家も心身が休まる場所ではないからだ。
玄関を開けるとリビングの電気がついていて、まだ夫は起きていた。ソファに横たわり、ぼんやりとテレビを観ている。
「おかえり」も「今日は遅かったね」のひと言もない。会社にも行かず家でのんびりしているだけなのに、夜遅く帰宅した妻をねぎらうこともできないのかと、恨みを込めてよく聞こえるように舌打ちをし、手を洗おうと洗面所に向かった。洗面所には朝から何ひとつ状況の変わっていない洗濯物の山があった。朝、洗濯しておいてと頼んでいたのに。洗濯をする時間ぐらいいくらでもあったはずなのに。
里沙は荒っぽく濡れた手を拭き、かかとを鳴らしてリビングに戻った。
「――いい加減にしろって!」
横になっていた夫がびくりとからだを震わせて起き上がる。何が起きたのか状況が理解できないらしく、夫はとぼけた顔で里沙を見ている。
「会社には行かないし、家事もやらないってどういうこと? これじゃあ、ただの役立たずじゃない。そういうの、本当に意味が分かんないんだけど! しっかりしてよ!」
口に出した瞬間『言い過ぎた』と思った。しかし、もう遅かった。里沙の言葉を聞いた徹の顔がくしゃくしゃに歪んだ。そして、あろうことか赤ん坊みたいな大声で泣き出してしまった。
ソファに顔を埋めて号泣する徹を見た里沙は、夫はただの体調不良ではないし、仕事が嫌になってしまったわけでもないのだと悟った。徹の心はもっと深刻な問題を抱えているのではないか。
そんなことを考えながら、里沙は呆然と立ち尽くしていた。
●仕事に没頭するも変わってしまった徹の姿が頭から離れない。そんなおり、里沙は職場で予想外のトラブルが起こったことを知るのだった。後編【夫はメンタル不調、“尊敬する先輩”はまさかのパワハラ…そしてバリキャリ妻が気づいた「夫婦にとって大切なこと」】にて詳細をお届けします。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。