「焦らなくてもいい」と夫は言うが…

その日の夜、絵里子は夫へチャットアプリでメッセージを送った。

夫の住むトロントとの時差は約14時間。向こうは始業前のコーヒータイムを楽しんでいる時間だろうか。

〈やっぱり祐也のことが気になるの。あの子、私には何も話してくれないのよ〉

数回読み直してから送信ボタンを押すと、間もなくして既読がつき、夫からの返信が返ってきた。

〈今はまだ休む時期なんじゃないか? 仕事を辞めたばかりなんだから、焦らずゆっくりさせればいいよ〉

夫の返事はいつも楽観的で、ある意味で絵里子には救いでもあった。しかし彼の「焦らなくてもいい」という言葉が、最近はどこかむなしく響くようになっていた。

〈わかってる。私だって、あの子が無理をしてまで外に出ることはないと思ってる。でも……こんなにずっと家でぼんやりしている姿を見ると、どうしても心配だよ〉

〈絵里子、気にしすぎだよ。放っておいても、そのうち自分の道を見つけるさ〉

その言葉に、絵里子はため息をついた。

毎日家の中で、何をするでもなくただ時間を過ごす祐也を、見ていないからこそそんなことが言えるのだろう。

もちろん、夫だって仕事で忙しいのはわかっているし、遠くからでは何もできないもどかしさを抱えているに違いない。しかし、絵里子は自分が感じている言いようのない不安を夫がいまいち理解してくれないことが悔しくて仕方なかった。

〈祐也がこのままずっと、自分を失ったままでいるのが怖いのよ。この半年、何も変わらない毎日を過ごしているあの子を見ていると、不安でたまらないわ。1度あなたからも、連絡して聞いてみてよ。父親になら何か話すかもしれないでしょ?〉

〈大丈夫。きっとあの子も何かのきっかけで変わるさ。もう少し見守ってやろうよ〉

絵里子は返事を打つことなく、スマホを投げ出した。いら立ったせいで少し呼吸が苦しい。ベッドサイドの引き出しから吸入器具を取り出し、ぜんそくの薬を吸い込む。

絵里子はベッドの上で静かに目を閉じた。これ以上、夫とやり取りを続ける気にはならなかった。寝室の中は静まり返り、時計の針だけが小さく音を立てていた。