仕事も家事も中途半端じゃないか

倫子は医療機器の卸販売をしている会社の営業部で働いている。比較的古い体質で体育会系の社風であるせいもあり、産休や育休で同期との出世レースに後れを取った倫子だったが、営業成績は常に上位で、社内でもエースと呼ばれるだけの成果を残していた。

デスクワークをしていると、この春から倫子の部署にやってきた課長の橋本に呼ばれる。

「奥野、ちょっといいか」

倫子はすぐに橋本のデスクに向かう。橋本は椅子に浅く腰かけたまま、ボールペンをカチカチと鳴らした。

「今日の夜、平和堂病院の朝永さんと会食をするんだけど、お前も来れるよな?」

営業部に来て、最初に覚えたのは接待での立ち振る舞いだった。医療機器を売る人間として、医者から気に入られることは至上命令とも言える。

以前の倫子であれば当然二つ返事で行っていただろう。だが、今は勝手が違う。

「申し訳ありません。できれば他の社員を連れて行ってもらえますか?」

眉根を落として倫子は頭を下げる。その瞬間、橋本の表情が険しくなった。

「おいおい、何言ってんだよ。平和堂病院がどれだけのクライアントか分かってる? 今期の予算達成かかってんだぞ?」

「ですが、ちょっと急すぎて……娘の」

「は、え、娘の世話? 何それ? 今までは普通に来てただろ? 信じられないんだけど。あ、もしやあれか、今はやりのワークライフバランスか」

もちろん名字が変わったこともあり、倫子の離婚は社内でも周知の事実だ。たいていの社員は気遣ってくれるか、触れずにそっとしておいてくれるのだが、橋本はあからさまに嫌みっぽく舌打ちをした。

「すいません。事前に言っていただければ大丈夫なんですが、当日はちょっと、すいません」

「はいはい。もういいよ。ったく、仕事も家事も中途半端じゃねえか。そんなんだから旦那に逃げられるんだろ」

思わず言い返しそうになって、倫子は歯を食いしばった。

お互いの気持ちが離れていったのは、それぞれの仕事が忙しくすれ違いが続いたことも1つの原因だ。倫子はこれまで、会社に貢献しようと身を粉にして働いてきた。そのことは成果として数字にも現れている。

その努力をろくに知りもしないくせに、中途半端だと言われる筋合いはなかった。

「なんだよ、その目は。ったく女はすぐ感情的になるな。もういいよ、お前のことは誘わねえから」

そう言うと、橋本は煩わしそうに手を払う。倫子は深く頭を下げて、自分のデスクに戻った。

何も感じてないという表情を作り、仕事を再開させたが、内心はマグマのような怒りが煮えたぎっている。

本来なら、課長のポジションに倫子が座っていてもおかしくなかった。成績だけならば同期のなかで最も速く出世できるくらいの成果を上げている自覚もあった。しかし、真悠を身ごもり、産休を取り、出世レースからは大きく後れを取った。

もちろん、真悠というかけがえのない存在を授かったことに何ひとつ後悔はなかったが、旧態依然とした会社という組織では出産をすることのない男のほうが圧倒的に有利なのだと改めて思い知らされた。

だが倫子の人生において、1番大切なのはまぎれもなく娘の真悠だ。

離婚することになり、名字が変わったりと真悠にはすでに迷惑と心配をかけている。だから倫子は離婚すると決まったとき、何があっても真悠を優先すると決めた。

それだけは橋本が何を言ってこようとも、揺らぐことはないのだ。