兄のようにはならない
放課後に友達と遊んで帰ってきた明里は、家族で暮らしているアパートの前に大型トラックが止まっているたび、ランドセルの肩ベルトをぎゅっと握った。大型トラックは父が帰ってきている証拠だった。2階に上がって薄いベニヤ扉の前に立つと、普段は聞こえない野球中継の音が漏れてくる。「だぁーっ! なぁにやってんだ! ど真ん中じゃねえかっ!」怒鳴り声とともに、机をたたく音がする。明里は深く吸った息を止めて、玄関扉を開けた。
父は長距離トラックの運転手で、家を空けていることが多かった。だから兄は、小学校に上がって父の仕事のことをなんとなく理解するまで、自分の家には父親がいないと思っていたそうだ。
だがこんな父親なら、いないほうがましだったと明里は思う。父が帰ってくるのは、決まってスロットで負けて金を無心しにくるときだった。そして母が金はないと言うと、暴れた。古いアパートの壁にいくつもカレンダーが下がっていたり、ポスターが貼ってあるのは、すべて父のげんこつが壁にあけた穴を隠すためだった。
中学生のとき、明里は母に、どうしてあんな男と結婚したのかと聞いたことがある。母は「どうしてだろうね。あんなろくでもない男だけど、悪いとこばかりじゃないんだよ」と困ったように笑った。あの男にいいところがあるとは思えなかったが、母はそれ以上、話そうとはしなかった。明里は今でも、母は結婚相手を間違えたと思っている。苦労をかけられ続け、そのせいで若くして死ななければならなかった。ぜんぶ父のせいだった。
母は明里が高校2年生のときに病気で亡くなった。血液のがんだった。明里が高校に上がったころから入退院を繰り返した。明里と康之は2人でやせ細った母の最期をみとった。父は来なかった。
以来、明里は父と口を利かなくなった。残り1年の高校生活をやり過ごし、卒業と同時に地元を離れて東京へと出てきた。夏のお盆も、年末年始も、ほとんど実家には戻らなかった。
だから今年も、帰省するつもりはなかった。苦労をかけて母の命をむしばんだ父のように、父の罪を忘れて何事もなかったかのように家族を演じる兄のようにはならないと決めていた。