キッチンに立つ春菜の手は、緊張で少し震えていた。今夜の夕飯に落ち度がないことを確認しつつ、手の中にあるメモを何度も読み返した。メモには、今までに夫・孝輔から受けた指摘が春菜自身の手で細かく記されている。

具体的な内容は、「肉より魚料理が好き」「野菜のゴロゴロ感が嫌い」といった孝輔の好き嫌いに関するもの。あるいは「一汁三菜を基本としたバランスの取れた献立であること」「品数は奇数であること」「だしは市販の物ではなく必ず自分でとること」「野菜は可能な限り国産の上質なもの」といった、献立や原材料についてのものまであった。

春菜はメモの内容を心の中で何度も繰り返し、グリルで魚を焼きながら、火加減を注意深く調整した。以前、孝輔に「焼き加減が悪い」としかられたことが頭をよぎる。ちょっとした焦げや、油の量まで厳しく指摘されたことを思い出すと息苦しくなった。

テーブルの上に並ぶのは、すでに完成した野菜の小鉢。いずれも、なるべく細かく刻んで食感を柔らかくしておいたし、味付けも薄味にならないよう孝輔の好みに合わせて入念に調整できている。

「これで大丈夫……なはず」

自分にそう言い聞かせながらも、春菜の心は落ち着かない。味が薄い、品数が足りない、野菜の切り方が雑――。少しでもミスがあれば、彼の目が冷たく細められ、固い声がヤリのように自分に向けられることを春菜は身をもって知っているからだ。

時計を見ると、もうすぐ孝輔が帰ってくる時間だった。間もなく玄関ドアの開く音が、まるで警報のように春菜の頭の中に鳴り響いた。