妻とビーフシチュー
いよいよ諒子の誕生日当日を迎えた。郁夫が選んだ献立はビーフシチューだ。事前に何度か試作はしてみたもののあまりうまくいかなかったが、本番当日にして会心の出来栄えだった。
夕方、帰宅した諒子は驚いた顔で台所へ入ってきた。
「何、この匂い?」
「おかえり。ビーフシチュー作ってみたんだ」
諒子は鍋に入っているビーフシチューを見て言葉を失っていた。
「ど、どうして?」
「大昔に焦げたハンバーグを作っただろ……そのリベンジだ。それに、今日は誕生日だろう」
「……なるほど、そういうことだったのね」
納得したようにうなずく諒子に、郁夫は首をかしげた。
「だってほら、ここ最近、不自然に冷蔵庫の食材が減ってたでしょう。包丁とかまな板も使ったあとがあったし、何かしてるんだろうとは思ってたのよ」
「そうだったのか……」
「気づかなかったの? 前よりも食材買う量、ずいぶんと増やしてたんだけど」
言われてみればそうだった。そもそも考えもせずに4人分の料理を作ってしまうようなミスを、そう毎日のようにできるはずもない。
郁夫はすっかり薄くなった頭をかいた。
「諒子にはかなわないな……」
「当たり前でしょう」
諒子は言って、さじを取り、ビーフシチューを鍋からすくって口へと運ぶ。急にやってきた試食の時間に、郁夫は緊張して背筋を伸ばす。
「ちょっと味が濃いわね」
「え、あ、そ、そうか? 気を付けたつもりだったんだけど……」
慌てる郁夫を見て、諒子ははじけたように笑った。
「うん、でも、おいしい。ありがとう」
濃いと言いながらも諒子は2口目を食べてくれた。郁夫はその光景を見て、幸せな気持ちになる。
「肉の臭みを取るにはローリエを入れ煮込むのよ。入れてないでしょ? いや、スーパーじゃ見つけられなかったのね、きっと」
図星だった。今回のビーフシチューを作るにあたり、当然郁夫は自分で買い出しに行っていたが、見つけられずに買いそろえられなかった食材がいくつかある。
「今度、一緒に買い物へ連れて行ってあげるわよ。
「ありがとう。腕はまだまだだが、これからは俺が夕飯を作って諒子を出迎えるよ」
「ありがとう。味は期待してないから、根詰めるのもほどほどにね」
諒子は着替えに向かった。郁夫はそのあいだにビーフシチューを皿によそい、ご飯を盛り付けた。
「誕生日おめでとう」
「やめて。この年になって祝うようなものでもないでしょ」
諒子は言いながら恥ずかしそうにほほ笑んだ。
郁夫の作ったビーフシチューは諒子のそれには遠く及ばず、また過去に食べたどんなビーフシチューよりも下回る味だったが、きっとこの味を忘れることはないだろうと思った。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。