緊急通報ボタンを押して救急車を呼んだ

あの日以来、冨美子が電話をかけても幸代が出ないことが多くなった。毎日のように電話をかけていたから、うっとうしく思われてしまったのかもしれない。幸代の声が聞けなくなると、冨美子は本当にひとりぼっちだった。テレビをつけて、ニュースキャスターやタレントに話しかけた。彼らはよくしゃべるのに、誰一人として冨美子の声を聞いてはくれなかった。

ある朝目が覚めると、頭が鉛玉のように重たかった。ゆっくり立ち上がろうとしても身体にうまく力が入らず、視界がぐるぐると回った。車酔いのような状態になり、強い吐き気に襲われた。冨美子は自分がどういう状態なのか理解できなかった。

助けてと叫ぼうとしたが、体が言うことを聞かない。無理やり寝返りを打ち、冨美子は枕元から何とかつかみ取った緊急通報ボタンを押した。

救急車が到着するまでの10分。しかしその10分は、70年以上もの人生のなかで経験してきたあらゆる10分よりも長く、そして苦しいものだった。自宅にやって来た救急隊員は冨美子を担架に乗せて、救急車へと運び込む。病院に搬送されながら、冨美子はもうこのまま全てを手放してしまってもいいのかもしれないと思った。

しかし診断の結果は熱中症で、点滴を打ちながら寝ているうちに気分は落ち着いてしまった。

「あら、起きられました?」

点滴を交換していた看護師が、冨美子に気づく。

「……今は、何時ですか?」

「今は9時を過ぎたところです。ちょうど3時間くらい寝られていたようですね。どうですか、ご気分は?」

視界は広く、声もはっきりと聞こえてくる。頭も重くない。

「はい、大丈夫みたいです」

看護師は冨美子の返事を聞き、ほほ笑んだ。

「良かった。でも緊急通報ボタン、ちゃんと使えて良かったですね」

そこで冨美子は最後の気力を振り絞って緊急通報ボタンを押したことを思い出す。

「ええ。夫を亡くしたときに、娘が私1人になるからって持たせてくれたんです。いつもはこう、ペンダントみたいに首から下げててね、寝るときだけは首が絞まると危ないから枕元に置いてたのよ」

「すてきな娘さんですね。とってもお母さん思いじゃないですか」

「いやいや、最近はお邪魔虫扱いですよ。用もないのに電話してくるなって言われたばっかりでねぇ」

「そんなのきっと本気じゃありませんよ」

看護師との会話がはずみ、冨美子は久しぶりに会話ができることの喜びを感じていた。起き上がれなかったときはどうなるかと思ったが、何事もなかった今となってはまさにけがの功名だった。