冨美子は毎朝目が覚めるとまず、仏壇に手を合わせる。仏壇には爽やかな笑顔を見せる夫の写真が置かれている。

夫が亡くなったのは1年前。冨美子が74歳のときだった。78歳という年齢を感じさせない元気さがあった夫は家で突然倒れ、救急車で搬送。そのまま帰らぬ人となってしまった。病名は急性心筋梗塞だった。別れの心構えさえできないまま、夫に先立たれ、冨美子は1人暮らしとなってしまった。

2階建ての一軒家は1人で住むには広すぎた。娘の幸代も、結婚し、家を出て行ってからは会うことが極端に少なくなっていた。

冨美子は仏壇の前から立ち上がり、朝食の準備をする。昔であれば、あれこれと料理をしていたのだが、1人前の料理を作っているとわびしい気持ちになるため、最近は電子レンジで温めるだけの簡単な調理のみになっている。身近に頼れる人もおらず、最近は足腰が弱くなったこともあって、この先どうしていけばいいのか不安もあった。

いつ砕けるかも分からない薄氷の上を歩くような孤独な生活のなかで、冨美子が唯一楽しみにしているのは、疎遠になっていた娘・幸代との電話だった。夫の葬儀で数年ぶりに顔を合わせてからは、遺品整理などを手伝ってもらったり、わずかな交流が生まれていた。

幸代は日中、スーパーでパートタイムの勤務をしている。夕方ごろに仕事が終わってから家事などを済ませ、時間が作れるのはだいたい夜の8時以降だった。冨美子は時間がすぎるのをじっと待って、8時になるや携帯で幸代に電話をかける。

「もしもし、幸代」

「はいはい、どうしたの?」

幸代の返事はいつもおざなりだ。パートや2人の大学生の子供の面倒などで疲れているのだろう。

「元気にしてる? 最近は急に暑くなってきたでしょ? ちゃんと水分を取らないと危ないわよ」

「大丈夫。昨日もそんなこと言ってたよ」

「そう? でも、心配だから。私もちょっと体調が悪くてね……」

幸代の気を引こうと、冨美子はうそをつく。

「何かあったら、前にあげた緊急通報ボタンを押して。それがあれば、救急車がすぐに来るから」

冨美子は首に下がっている、赤い文字で“SOS”と書かれた緊急通報ボタンを見る。夫が亡くなった後、幸代に渡されたものだった。

「今度のお休み、顔くらい見せに来なさいよ。一緒にご飯でも食べましょうよ」

「何回も言ってるでしょ。そんなの無理。忙しいんだから」

携帯電話越しに、幸代が舌打ちをするのがかすかに聞こえた気がした。

「話ってそれだけ?」

「え……?」

「終わりなら、切るけど」

幸代の冷たい言葉に冨美子は胸が締め付けられた。返す言葉は出てこなかった。

「ごめん、ちょっと忙しいから。じゃあまたね」

幸代は電話を切ってしまった。冨美子は無言で携帯を耳から離した。ひとりぼっちの部屋は広く、暗く、そして寒かった。