ささやかな癒し
忍び足で衣裳部屋に入り、トレーニングウェアに着替えるとジムに向かった。フィットネスバイクのコーナーに陽太の姿を認め、安堵した。こんな日に一人で黙々とトレーニングするのは寂し過ぎる。
「こんばんは」
いつもと同じように挨拶をして、陽太の隣でフィットネスバイクを漕ぎ始める。その前の週末外出した際に陽太の姿を見たことから、さりげなく話を振ってみた。
「そう言えば先週末、河合さんのこと見かけましたよ」
「え、何時頃?」
「夕方買い物帰りに駅前で信号待ちしていたら、河合さんが運転する車が正面に止まってて。アルファード、乗ってるんですね。高級車じゃないですか?」
「わっ、見られちゃったんだ」
「ええ、見ちゃいました」
相手が陽太だと、些細な会話も盛り上がる。気難しい智也とは大違いだ。智也との息苦しい日常に思いをめぐらせていると、予想外の言葉が飛んできた。
「車、詳しいんだね。良かったら今度ドライブ行かない?」
え、今それを言う?最初は少々戸惑った。いつもの自分ならきっと、「仕事が忙しくて……」とやんわりお断わりしていたに違いない。だがこの時は、心が疲弊し誰かにすがりたいモードになっていたのだろう。気が付けば、「いいですよ」という言葉が口を突いて出ていた。
陽太とはその週末の日曜日の朝、地下駐車場で待ち合わせることになった。久しぶりのデート。不思議と心が躍った。智也に対する罪悪感は皆無だった。
私も今年6月には30歳になる。結婚した頃には子供が生まれたら仕事も辞めて、社長夫人として智也を支える未来図を思い描いていた。だが、今の私たちに未来など存在しない。華やかだった5年前からすっかり色褪せてしまったモノクロームの日常が、無間地獄のごとく続いていくだけだ。
この牢獄のようなマンションから脱出したい。陽太が手を差し伸べてくれたら、と切に願った。
●河合陽太とのデータ当日、予想外の事件が起こる。後編【“王子様”だった夫は無職の多重債務者に…セレブになり損ねた女性が見た地獄】で詳説します。
※この連載はフィクションです。実在の人物や団体とは関係ありません。