小枝子を守った「ある物」

小枝子はその日の夜、隆平の帰りを待ってから話を切り出した。

「隆平さん、話があるの」

片づけを終えた食卓に向かい合って座る。コーヒーを入れようかとも思ったが、こぼされてしまうと掃除が面倒なので入れなかった。リビングは息が詰まるような緊張感に満ちていた。

「なんだよ、改まって」

「あのね、一度、距離を置かせてほしいの」

もし空気をガラスや陶器に例えられるなら、明確に亀裂が走ったに違いない。張りつめていた空気はどす黒い粘り気を帯び、小枝子の首を絞めていく。

「は? どういうこと?」

まるで獲物を見定めた猛獣が低くうなるように、隆平の声が耳朶(じだ)を打つ。

「今のまま一緒にいても、私たちのためにならないって思うの。隆平にとって、きっと私はストレスになってるし、私もできないことばっかりで隆平を怒らせちゃうの苦しいの。だから少し距離を置いたほうがいいって」

「誰かに吹き込まれたの?」

隆平は小枝子をにらんでいる。小枝子はうつむいた。机の下で合わせた手のひらをぎゅっと握る。

「あの女か。和江とかいう。あいつが別れたほうがいいって言ったのかっ!」

隆平が立ち上がり椅子が倒れる。小枝子は握り締める手にさらに固く力を込める。

「そうやって声を荒げるの、すごく怖いの。震えが止まらなくなっちゃうの」

「お前が寝ぼけたこと抜かすからだろうが!」

隆平は小枝子の髪をつかみ、床へ引き倒す。小枝子ははいつくばって逃げ出そうとするが、隆平がすぐに追いついてきて髪を引っ張り上げる。

「どうして分からないんだ! 全部お前のためにやってることだろうが!」

耳元で怒鳴りつけた隆平は小枝子を何度もたたいた。小枝子は必死に抵抗し、倒れた拍子にポケットから落ちたスマホを拾って隆平に投げつける。しかしスマホはあさっての方向へと飛んでいき、隆平の後ろにある窓ガラスを砕いた。

夜の冷たい空気が流れ込んでくる。小枝子の反撃は予想していなかったのか目を見開いて固まっていた隆平は、すぐにわれに返り小枝子を怒鳴りつける。

「何やってんだよ。一体誰が修理代払うと思ってんだよ!」

小枝子はつかみかかってくる隆平を無我夢中で突き飛ばして玄関へ向かった。はだしのまま廊下へと飛び出す。

「おい、どこ行くんだよ!」

「来ないでぇ!」

エレベーターを待っている時間はない。小枝子は非常階段を駆け下りる。広いエントランスホールを横切り、道路へと飛び出す。ちょうど目の前で車が急停止して、かわそうとして身体をひねった小枝子は地面に倒れ込む。

「大丈夫ですか⁉」

運転席から降りてきたのは警官で、止まった車はパトカーだった。

「おい小枝子!」

怒鳴り声とともに外に出てきた隆平は、赤く明滅するサイレンを見るや固まった。

「お巡りさん、こっちこっち!」

エントランスには隣の部屋の旦那さんの姿があった。隆平を指さして叫んでいる。

「おい、てめえどういうつもりだよ」

隆平は振り返り、お隣さんに詰め寄る。しかし機敏に動いていた警官たちが隆平をあっという間に地面へと組み伏せた。

「通報がありました。家庭内で暴力を振るっていると。一度、署までご同行いただけますか?」

「離せよ! 夫婦の問題に口出しするのかっ!」

小枝子はむさぼるような深呼吸を繰り返した。ぐしゃぐしゃに混乱した頭のなかでも、運命坂のことだけははっきりと思い浮かんでいる。

運命坂の言う通りだった。

パトカーに押し込まれる隆平を見ていると、気持ちが軽くなっていくのが感じられた。

小枝子はここにはいない運命坂に向けて手を合わせる。小枝子の細い腕には、運命坂から25万円で買ったパワーストーンのブレスレットが光っていた。

※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。