眠れぬ夜を過ごした後で

思いあぐねた美月は、眠れぬままに迎えた朝、電車に乗って埼玉の実家に向かった。母親に相談できるような内容ではなかったし、親には劇団の養成所にいることすら話していなかった。親の顔を見たところで、直接的に今の迷いに答えが得られるとは思えなかった。ただ、美月にとって母親は、常に自分の人生の羅針盤のような存在だった。いつもきれいで、笑顔で接してくれる母親のような女性になりたいと小さな頃から思っていた。

毎日の通学で使っていた駅から、通いなれた道を実家に向かって歩いていると、美月の気持ちが少しずつ軽くなってきた。実家までの最後の曲がり角を曲がって実家の庭先が見えると、そこに母の姿があった。最近の趣味にしている盆栽の手入れをしているのだった。母親は美月に気が付くと、驚いた様子だったが、すぐに笑顔になって美月を迎えてくれた。「どうしたの突然。あら、ちょっと痩せたかしら? おなかすいてない?」と美月の手を取ってあれこれと質問攻めをしてくる母親を前にして美月は思った。「お母さんを悲しませないような決断をしよう。お母さんが喜んでくれるような役者になれるように頑張ろう」と。

母親の後について実家の玄関をくぐった時、美月の気持ちはすっかり固まっていた。「私には私のやり方がある。お母さんに恥ずかしいことのない生き方をして誰にも負けない俳優になる」と思い定めた。優花の話を聞いて以来、ここしばらくの間、胸にもやもやしていた黒い塊が、スッと抜け出したような気持ちになった。

※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。

文/風間 浩