矢沢美月(19歳)は、師匠として尊敬する劇団主宰の峯山久美子(48歳)の言葉に戸惑っていた。久美子は美月が同期入団でライバルと意識している工藤優花(21歳)とともに自室に呼び出して告げたのだった。「あなたたちは、50歳になるまで、今の生活を続けていくことができる? もし、続けていく自信がないのなら役者を諦めなさい」と。劇団の中で、美月と優花は「次代のエース」として期待されていたのだ。その2人に、まるで退団を迫るかのような久美子の言葉に、美月は返す言葉がなかった。しかし、優花は「はい。いつまでも頑張ります」と即答していた。一呼吸遅れて美月は「私も、頑張ります」と口にした。この時のためらいが、美月を苦しめることになる。
美月が俳優の道を目指そうと考えたのは、高校生の時に久美子が主宰する劇団『クイーン』の公演を見に行ったのがきっかけだった。それまでは、演劇部に所属する演劇好きの高校生の1人に過ぎなかったが、久美子たちの作品を見て世界観が覆った。美月が考えていた演劇と『クイーン』の作品は、子供の落書きとピカソの絵くらいに異なるものだった。演劇の可能性をさまざまに刺激してくる『クイーン』に美月は夢中になった。そして、美月が高校3年生になった時、『クイーン』が劇団研究生を初めて募集した。劇団から定期的に送られてくるメルマガで研究生募集の告知を見た時、美月は運命を感じた。
研究生は、『クイーン』が設置する演劇教室に生徒として所属する。月謝は毎月2万円で、希望すれば『クイーン』の公演の手伝いやエキストラとして起用されることもあるということだった。授業は平日の午前9時~午後5時までみっちりとカリキュラムが組まれているため、生半可な気持ちでは応募できないものだった。美月は、ちょうど東京の専門学校に進学するつもりで準備を進めていたので、親には専門学校に通うということにして、『クイーン』の研究生募集に応募した。
競争率1000倍の先にあるもの
ところが、研究所のオーディション会場に行ってびっくりした。東京・中野の大きなイベント会場がオーディション会場になっていたのだが、そこに300人を超えるほどの志望者が集まっていたのだ。聞くところによると、その日のオーディションに参加できたのは、書類選考を突破したものだけということで、応募者総数は1万人を超えていたという。劇団の研究生の募集人員は10名だったため、応募倍率は1000倍を超えていた。『クイーン』は、新進気鋭の演劇集団として演劇界の期待を集めていた。主宰する峯山久美子や看板女優の中村さくら(32歳)は、テレビドラマでも引っ張りだこになるほど人気者だった。そこが初めて劇団員を公募したため、全国から応募が殺到したのだった。
選ばれた10人のうち7人は、プロダクションに所属するプロの卵だった。美月がライバル視するようになる優花も大手プロダクションに所属し、歌やバレエのレッスンを受けていた。一般の高校生や大学生からオーディションに合格したのは美月を含む3名だけだった。そして、半年もしない間に頭角を現したのが、美月と優花の2人だった。美月には、天性の勘の良さがあった。それは、久美子が指導する授業において行われた「口立て」の時に発揮された。
久美子は、おおよその筋道だけを簡単に告げただけで、2人の研究生を前に出して、その場で思いついた当て振りのセリフをどんどん口に出した。研究生は、そのセリフをオウム返しに、ただし、その時々の感情を乗せて話して芝居を進行するのだった。この「口立て」で抜群の演技を見せたのが美月だった。時には、セリフを振っている久美子が涙ぐむほどの迫真の演技をしてみせた。
入所して半年くらいたった頃、美月の生活は困窮していた。当初は、専門学校に行く予定で親が用意してくれた授業料や入学金などがあったため、研究所の月謝や生活費に困るようなことはなかった。研究所の稽古は午後5時には終わったため、その後でコンビニや居酒屋でバイトをして収入を得ることもできた。ところが、劇団が公演を打つことになると、その裏方の仕事をすることになり、研究所の稽古が終わった後で劇団の公演に向けた稽古を見学することが当たり前になった。『クイーン』の公演は、その都度、客演の俳優を招いていたため、その客演俳優が参加できないような稽古の時には、研究生が代役を務めた。また、エキストラとして本番の舞台に立てるチャンスもあったため、本公演に向けた稽古の見学は、研究生にとっては非常に魅力的な機会になっていた。