冷たく薄暗い部屋のなかには、暖かく柔らかい外の光がわずかに差し込んでいる。小山田昭一はその境界線に腰を下ろし、かすかに聞こえる音に耳を澄ませる。

近くの公園で遊ぶ子供たちの声。道路を走っていく車のエンジン音。少し前までは、時折吹く風が奏でていく葉擦れの音も聞こえていたはずだったが、今はもう聞こえなかった。

「なあ、芳美」

昭一は長年の喫煙ですっかりしゃがれた声を絞り、窓から部屋のなかへと視線を移す。しかし返ってくる声はなく、昭一の視線には遠い昔に別れた妻の写真が小さなちゃぶ台の上に置かれているだけだった。

ここのところ暮れるのが早くなった冬の西日だけは、慰めるように昭一の丸まった背中を温めている。

夢破れ、すべてを失った

昭一はひとりだ。35年前に妻が息子を連れて出て行ってから、ずっとひとりだった。

いつも夢を見ていた。画家になりたくて美大に進んだが画家にはなれず、小さな絵画教室で、油彩と水彩の区別さえ曖昧な中年女性たちに絵を教えた。

そんなうだつの上がらない日々のなかで、昭一は芳美と出会い、息子の晃が生まれた。今振り返ればそれは昭一の人生の絶頂だった。だが昭一はそれに気づくことができなかった。

俺の人生はこんなもんじゃない。

そんな夢とも呪いとも分からなくなってしまった青い妄想に、昭一はのみ込まれていた。

描いた絵は認められず、酒を飲んで暴れた。芸術家と常識外れをはき違え、欲望のままに浮気を繰り返した。われながらろくでもない父親だと今になって思う。芳美たちが出て行ったのは当然だ。家の壁のあちこちに開いた穴からは、出来損ないの昭一を苛(さいな)む声がずっとささやいている。

芳美たちがいなくなり、家族がちっぽけな自分に残されたすべてだったことに気がついた。けれど一度、黒く塗ってしまった絵に取り返しがつかないように、壊した家族が元通りになることはなかった。

失ったものの大きさを知った昭一は、同時に絵も描けなくなった。

そのとき昭一は死んだ。死んでいながらに生きていた。

芸術ばかりをやってきた昭一には友達もいなければ、近所との付き合いもない。芳美の写真に話しかける以外、昭一が声を出すのはコンビニの店員にタバコの番号を伝えるくらいのものだった。

現世に取り残された幽霊のようだった。出来損ないの昭一には似合いなのかもしれない。