コロナで失職、夫は育児ノイローゼに…

七海と大輝の生活が暗転したのは、結愛が1歳の誕生日を迎えた直後、大輝が勤めていた自動車修理工場が倒産してからだ。倒産のきっかけは、経理担当の社員が売り上げを持ち逃げしたことだった。賭け事が好きな社員だったが、違法賭博にまで手を染めていたという。従業員7名の小さな町工場から、1カ月分の売り上げが失われた影響は大きかった。大輝は失職し、その後に始まったコロナ・パンデミックのために、再就職もままならない状態になった。七海の勤める美容室はパンデミックによって2カ月の休業を余儀なくされたものの、その後に再開し、美容室は存続した。

七海は大輝に結愛を託すことで、仕事に打ち込むことができた。結愛の面倒を見るために早めに帰宅する必要がなくなって、時間の許す限り技術力の向上に努め、新しい技法も積極的に身に着けようと先輩美容師と夜遅くまで美容室で過ごすことも少なくなかった。そんな日は、帰宅すると結愛は寝入っていて抱き上げることもできないことが寂しかったが、自分が美容師として能力を高めている実感があり、七海の生活は充実していた。ところが、七海の帰宅が遅くなることが3日も続いた夜、その日は七海が帰った時に結愛がぐずっていた。鳴き声にも力がなく、思わず結愛を抱き上げてみて、その軽さに驚いた。

その頃、結愛はちょうど離乳食から普通食に切り替えている時だった。大人と同じものを同じようには食べられはしなかったが、意識して柔らかい食べ物を用意し、ゆっくり食べさせてあげれば、手間のかかる離乳食を作る必要はなかった。大輝に結愛を任せられたもの、ようやく離乳食を作る必要がなくなっていたことが大きかった。しかし、大輝は結愛の様子を見ながら食べるものを選び、食べる時にも結愛を見守ることができなかったようだ。徐々に結愛に食べさせることをないがしろにし、その頃には結愛のために食事を用意することすらしなくなっていた。その夜、大輝から育児ノイローゼになりそうだと告白された。就職活動もうまくいかず、何をしてほしいのかはっきり伝えられない結愛の面倒は見切れないと大輝はポロポロと涙をこぼした。

母としての選択

大輝の姿に家族の危機を感じた七海は、翌日から休職し、大輝の職探しを第一に考える生活に切り替えた。そのかいもあって、大輝は2カ月ほどの求職活動でガソリンスタンドの職を見つけて働き始めた。コロナ禍が日常となり、近所の保育園も再開されたため、七海も復職した。ただ、大輝が休職に専念していた2カ月足らずの間は、家計の収入がゼロだったため、その間に貯蓄のほとんどを吐き出してしまっていた。そして、結愛は大輝を避けるようになっていた。大輝が抱き上げようとすると全身で抵抗し、無理に抱え上げると大泣きをした。

ほどなく、大輝は「俺と結愛とどっちを選ぶ?」と聞いてきた。七海にとって、大輝と結愛は二者択一にできる存在ではなかった。それを知っていながら、質問をしてきた大輝の気持ちを推し量ることが七海にはできなかった。その日から、七海が大輝と別れるまで時間はかからなかった。離婚を切り出した時に、大輝にはどこか安堵(あんど)したようなところさえあった。

ところが、七海と結愛の不幸は、大輝と離婚しただけでは終わらなかった。むしろ、大輝と別れた後に、本当の苦労は始まったのだった。

●母娘2人きりになった七海と結愛の生活に待ち受ける落とし穴とは?  後編「振り込まれない養育費を待つ地獄… 振リ込みを渋る元夫の態度を一変させた“一枚の紙”」にて、詳細をお届けします。

※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。

文/風間 浩