変わってしまった夫婦の時間

診察室を出た帰り道、早苗は改札の向こうに見える空の色をぼんやりと眺めていた。

冬の午後は早く、すでにビルの間に夕闇が落ち始めている。

手元のエコバッグには、「妊娠初期の注意点」と書かれた冊子。すぐに読もうという気にはなれなかった。電車の中ではずっと考えていた。

大地になんて伝えようか、どんな顔をするだろうか。

緊張に似た高揚が胸の奥に渦を巻いたまま、早苗はまっすぐ家に帰った。

「おかえり。遅かったね」

エプロン姿の大地が、キッチンから顔を出す。夕飯を作ってくれていたようだ。湯気の立つ鍋の匂いが鼻をくすぐる。

「ねえ、ちょっと、話があるんだけどさ」

そう切り出すと、大地は眉をひそめてこちらを見たが、早苗の表情に何かを察したようだった。

「どうした?」

「さっき、病院で……妊娠してるって言われた」

一拍、沈黙。

しかしすぐに、大地の顔がぱっと明るくなる。

「ほんとに⁉ すごいじゃん、やったな! いやー……めでたい! よし、乾杯しよ!」

言うが早いか、大地は冷蔵庫に駆け寄ってビールの缶を取り出す。早苗はそれを見て、少し慌てて口を開いた。

「ちょっと待って。お酒は」

「え? ……あ、そっか。ちょっとだけでもだめなのか」

「うん……だめなんだって。だから私は飲めないや」

ビールを手にしたまま固まる大地に、早苗は精一杯の笑みを見せた。

「でも、大地はいいよ。めでたい日なんだし。せっかくだから、飲んで」

自分でも驚くほど、穏やかな声だった。

本当は少し寂しい。大地と乾杯したかったし、同じ味を共有したかった。

でも、妊娠するとはそういうことなのだと、自分に言い聞かせるしかなかった。

大地はしばらく迷っていたが、「……じゃあ、1本だけ」と言って缶を開けた。小さく「ぷしゅっ」と音がして、早苗の心の奥に小さな針が刺さる。

「おめでとう、だね」

「うん、おめでとう」

カチン、とグラスが軽く触れ合う。

早苗のグラスには、炭酸水に薄く切ったレモンが浮かんでいる。泡が静かに立ちのぼり、キッチンの照明を受けて、わずかにきらめいた。