香ばしい匂いに揺れる心
次に目を開けたとき、春貴はエレベーターの前に立っていた。
マンションの廊下。自宅ではないと理解するまでに、数秒かかった。
「勝手に連れてきてごめんなさい、何度聞いても住所言ってくれなかったので……」
部屋に入ると、リビングとキッチンが目に入る。派手さはないが、整えられた生活の匂いがした。
「ちょっとお水飲んで座っててください。今、何か作りますから」
ソファに腰を下ろすと、全身の力が抜けた。
喉の奥に、空腹と吐き気が同居している。ひょっとするとタクシーに乗りながら吐いたのかもしれない。
愛美に渡された水を一口飲むと、少しだけ意識がはっきりした。彼女はキッチンに向かい、「うわ、何もない」とぼやきながら冷蔵庫の中をのぞき込んでいる。コンロに火がともる音を聞きながら、春貴は、ようやく自分が世話を焼かれていることを実感していた。
気づくと、部屋には香ばしい匂いが満ちていた。しょうゆが焦げる手前の甘い香り。
春貴は、ソファにもたれたまま、ぼんやりとキッチンのほうを見やった。
「すいません、こんな時間に部屋に……」
かすれた声で言うと、コンロの前に立つ愛美が振り返った。
「いいんです。何か食べないと、本当に倒れちゃいますよ」
フライパンの中で、細かく刻まれた緑色の葉が音を立てている。愛美が菜箸で炒めながら、炊飯器のふたを開けた。
「大したものじゃなくて申し訳ないんですけど……大根の葉が余ってて。これ、混ぜご飯にするとおいしいんですよ」
その台詞に、胸の奥がわずかにざわついた。理由はすぐにはわからない。ただ、目の前の光景と、はるか昔の台所が重なりそうで、春貴は視線をテーブルに落とした。
