<前編のあらすじ>

30代の若さで金融営業の課長として働く春貴は、稼ぐことが自分の価値だと信じて生きてきた。ある日、アプリで知り合った愛美との会話で家族の話題になると春貴の胸に複雑な感情が湧いた。

その後、春貴は仕事で会社に大きな損失を出してしまう。「仕事ができる営業」という評価が簡単に剥がれ落ちる現実に直面。春貴は母を看取ることができなかった過去を思い出す。

愛美との約束もキャンセルしようとするが、春貴は「少しバタバタしているが大丈夫」と返信し、「仕事という看板が剥がれたら、何者として残るのか」と自問するのだった。

●前編【エリート課長の転落…重大ミスで自分の価値を見失った30代男性、深夜のオフィスで気づいた“仕事一筋の人生”の虚無

酔いに任せてこぼれた本音

居酒屋ののれんをくぐると、油としょうゆの匂いが押し寄せた。春貴は、約束の時間ぎりぎりに滑り込みながら、肩で息をしていた。

「深谷さん?」

振り向くと、大沢愛美がコートの前を押さえて立っていた。落ち着いた声だが、少し心配の色が混じっている。

「ごめん、待たせた」

「いえ、私も今来たところです」

個室に通されると、春貴はメニューもろくに見ないまま、生ビールを頼んだ。1杯目が届くと同時に、ほとんど水のような勢いで喉に流し込む。空きっ腹にアルコールが染み込み、全身を巡るのを感じた。

「仕事、大変なんですね」

「まあ、ちょっとトラブルがあってさ。俺のミスで、会社に迷惑かけてて」

言うつもりのなかった言葉が、勢いで口からこぼれた。グラスが空いていくうちに、精神的な防御が薄くなっていく。疲れのせいか、普段よりも酔いやすくなっているようだ。

「昔からさ、仕事でなんとかしなきゃって思って生きてきたんだよ。稼いで、見返してやるって……誰を見返すのかも、よくわかってないくせにさ」

自分でも制御できない愚痴がつながっていく。愛美は相づちを打ちながら、ときどき水を勧めてくる。

「家のこととかも、いろいろあってさ」

そこで、言葉が喉に引っかかった。

家を出て行く父親の姿や、給食のパン、疲れた母の笑顔。酔いがそれらを一気に浮かび上がらせる。だが、それを口にした途端、自分が崩れてしまいそうで、春貴は笑いに変えた。

「まあ、昔話だよ。今さらどうにもなんない」

「大丈夫ですか? 顔、真っ赤ですよ」

「大丈夫、大丈夫。こう見えてタフなんだよ、俺」

立ち上がろうとした瞬間、足元がふらりと揺れた。テーブルをつかまなければ、そのまま崩れ落ちていただろう。

「やっぱり、大丈夫じゃないです。今日はもう帰りましょう」

愛美の声が、いつもより少しだけ強くなる。会計を済ませて外に出ると、夜風が酔いと疲労を際立たせた。

「タクシー、呼びますね」

「駅までなら歩けるって」

「歩けるように見えませんから」

半ば支えるように腕を取られ、春貴は抵抗をやめた。

タクシーの後部座席に沈み込むと、まぶたがすぐに重くなる。行き先を告げる愛美の声だけが、遠くで聞こえた。