返事のない部屋に入ると
「夜分遅くすみません」
電子音が短く鳴り、すぐに静けさが戻る。しばらく待っても、足音ひとつしない。もう一度チャイムを押し、今度はドアを軽くノックした。
「鈴木さん、起きてるんでしょ」
呼びかけても、やはり何も返ってこない。テレビの音も、水の音も聞こえない。無視されているのか、本当に気づいていないのか、一瞬判断がつかなかった。
さっきの「がたん、どん」という音だけが、耳の奥でよみがえる。
「鈴木さーん、起きてらっしゃいますかー」
先ほどよりも声を張りながら、裕美はドアノブにそっと手をかけた。ロックはかかっていない。
「……失礼します。下の階の細井です」
そう告げて、裕美はゆっくりとドアを押しあけた。玄関からのびる廊下の先、リビングに設置されたエアコンの下に人影が倒れていた。横倒しになった椅子が、その傍らに転がっている。
「鈴木さん!」
裕美は駆け寄り、しゃがみこんだ。鈴木さんは額に汗を浮かべ、苦しそうに息をしている。目は開いているが、うまく焦点が合っていない。
「あ、あなた……細井さん……?」
かすれた声が、床すれすれから届いた。
「今、救急車呼びますね。動かないでください」
裕美はポケットからスマートフォンを引き抜き、震える指先で番号を押した。
住所、おおよその年齢、おそらく椅子から落ちたこと。オペレーターの質問に答えていく自分の声が、妙に他人事のように落ち着いて聞こえる。
通報を終えると、また静けさが降りた。暖房は止まっているのか、部屋の空気はひんやりとしている。
「ごめんなさいね……こんなことになって」
鈴木さんが、天井を見たままつぶやいた。
「エアコン、自分で掃除しようとしたの……1人だと、つい無理をしちゃうのよ。誰か呼ぶのも、悪くてね……」
少し息を整えてから、続ける。
「この前も……強く言っちゃって。洗濯物のこと。本当は、自分に腹が立ってただけなの。思うように動けないのが、悔しくて」
謝罪とともに、自分を責める言葉が、一緒にこぼれ落ちる。裕美は、一瞬返答を探し、それから短く答えた。
「……大丈夫です。もう気にしてませんから」
遠くでサイレンの音が聞こえ始める。近づくにつれて、張りつめていた肩の力が少し抜けた。
やがて救急隊員が到着し、てきぱきと鈴木さんの状態を確認していく。裕美は必要なことだけ説明し、ストレッチャーが玄関を通るのを見送った。
運び出される途中、鈴木さんがこちらを見た。
「……ありがとう」
薄い毛布の向こうのその顔には、年齢相応の弱さと、これまで見えなかった普通の人間らしさが浮かんでいた。
