朝食を見下ろしながら、秀美は味噌汁の椀をそっと持ち上げた。目の前では、夫の拓哉が新聞を広げたまま黙々とご飯を口に運んでいる。時折響くテレビの笑い声だけが、空気を満たしていた。

3人の息子たちは、みな独立した。長男は地方で働き、次男は隣県で家庭を持ち、三男もこの春から大学の寮に入った。二十数年、朝から晩まで子ども中心だった日々が、あっけなく終わってしまった。

それはたしかに母としての「一段落」だった。達成感もある。しかし一方で、その静けさは想像以上に深く、秀美の心に広がった。

子育てを終えた空虚感

「ごちそうさん」

拓哉が短くそう言って席を立つ。

「うん」

夫婦になって30年以上。

会話は必要最低限にまで減り、日々はただ、決まった時間に決まった形で流れていく。

皿を洗い終え、洗濯物を干して、掃除機をかける。時計はまだ午前11時を少し回ったばかり。家事を終えたあとの静寂が、家全体に降り積もっていた。ソファに腰を下ろしても、落ち着かない。テレビをつけても、バラエティの笑い声が空々しく聞こえるだけ。予定も用事もない時間が、こんなにも扱いに困るものだとは思わなかった。

何か新しいことを始めればいいのだろうが、秀美にはとくにこれといった趣味もなかった。パートをしようかとも考えたが、今さら初対面の人と一から関係を築くのも億劫だ。

「もう誰かに頼られることもないんだな」

そんなことをふと思う日が増えた。

思い返せば、自分が主語の話なんて、ここ何年もしていない。いや、それどころか「私がどうしたいか」なんて、考えたことすらなかったかもしれない。

秀美はうっすらと笑って、自分の手の甲を見つめた。少し皺の増えたその手は、家族のために皿を洗い、弁当を作り、洗濯物を干してきた。

ずっと、誰かの生活の一部だった。しかし今、その「誰か」がいなくなって、ふと立ち止まったとき、自分が何を見ていたのか、何を感じていたのか、うまく思い出せない。

そんな感覚に包まれたまま、また午後が始まっていく。