佐登子の体調の変化

朝から湿気が重く、旋盤の音にもわずかに鈍さが混じって聞こえる。工場の換気扇がゆっくりと回り、湿った空気をかき出していた。検査台には変更の入った新しい図面が置かれ、外径と締め代がわずかに修正されていた。

佐登子が事務所から出て声をかけると、雄大は図面を確認し、木戸に手渡したところだった。

「急な仕様変更だな……ま、やるしかねぇけどよ」

木戸が小さく舌打ちしながらも、治具を外しにかかる。誰も文句を言わないのは、こういう事態が珍しくない業種だからだ。しかし、納期を縮めた分の負担が、じんわりと現場にしみてくる。

「ま、とりあえず食うか」

雄大の声掛けで、簡単な昼食を囲んだ。

炊飯器のご飯は朝のうちに春山が仕掛けておいてくれたもので、汁物の椀からは味噌と生姜の香りが湯気とともに立ちのぼる。普段なら食欲をそそる光景だったが、湯気を吸い込んだ瞬間、佐登子は思わず顔をそらした。

胃のあたりにふっと重さがのしかかるような感覚。妊娠の影響だろう、自分でも驚くほど、においに敏感になっていたのだ。

すると、実習生のリンが無言で換気扇を「強」に切り替えた。何も言わないのが逆にありがたかった。

食後、事務所に戻って伝票の整理をしていると、机の端に何かが置かれているのに気がついた。

個包装のチョコレート。

「美咲ちゃん、だな」

リンも春山も、佐登子が何らかの不調を抱えているのを察しているらしい。ふっと微笑んだそのとき、窓の外から、子どもたちの声がかすかに聞こえた。

学童の下校時刻らしく、濡れた道を駆ける足音が響く。明るい笑い声が遠ざかっていくのを聞きながら、佐登子はふと、昔の記憶を引き寄せていた。

雄大が言った過去の言葉

あれはまだ結婚する前、駅までの帰り道だった。

並んで歩きながら公園の脇を通ったとき、小さな子が母親に縋りついて大泣きしていた。雄大はちらりとその方を見て、ぽつりと呟いたのだ。

「……俺、子どもって嫌いなんだよな」

深い意味はなかったのかもしれない。でもあのときすでに、彼との将来を考えていた佐登子には、何気ない一言では済まなかった。

彼の嫌がることはしたくなかった。嫌われたくなかった。ただその気持ちだけで、自分の気持ちに蓋をした。

だから結婚しても、子どもの話は出さなかった。ネグレクト気味の両親の下で育ち、元々家族との縁が薄かった佐登子にとって、それは特別難しいことではなかった。

「中絶するしかない」

その考えが自然と頭を支配する。誰にも話せないまま、粛々と流れていく日常。回る換気扇の音が、どこか遠くに感じられた。

●夫と切り盛りする町工場で働く佐登子。結婚15年目にして初めての妊娠に、かつて雄大が言った「子どもって嫌いなんだよな」という言葉を思い出す。誰にも言えないまま、中絶を考え始めていた佐登子だが……… 後編【「本当に俺たちに子どもが?」隠したはずのエコー写真を発見した夫が妻に言った本音と意外な反応】にて、詳細をお伝えします。

※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。