油と鉄の匂いが、まだ色濃く残っていた。佐登子が事務所の奥にあるスイッチを押すと、工場の天井に取り付けられた回転灯がゆっくりと点滅を始める。橙の光が壁や機械の表面を照らし、いつもと変わらない1日が動き出す。

「おはようございまーす」

明るい声とともにパートの春山が出勤してきた。

「おはよう、美咲ちゃん。今日はちょっと肌寒いね」

挨拶を返しながら、佐登子は作業着に包まれた二の腕を軽く擦った。

佐登子の心配

夫・雄大と夫婦で切り盛りする町工場。従業員は、外国人実習生を含めてたったの6人。自ずと佐登子が経理と事務全般を一手に引き受けることになる。

しばらくすると、背後の旋盤の方からベテラン技術者の木戸の声が聞こえた。

「なんだ佐登子ちゃん、朝から浮かない顔だな」

「うちの帳簿を見たら、木戸さんだって同じ顔になるよ」

笑いながら返すと、木戸が「そりゃまずいな」と苦笑まじりにノギスを手にした。固い床の感触を足裏に感じながら、佐登子は事務所の椅子に腰を下ろした。

帳簿を開くと、目に飛び込んできたのは先月の仕入れ。素材の価格がまた上がっている。数字の横に付けたメモをなぞると、触れた指先からじんわりと冷たい温度が這い上がってきた。昨年から比べて1割強の上昇。小ロット試作では1つミスすれば即、赤字。木戸がよく言う「一発一発が赤だぞ」という声が脳裏をよぎる。

(駄目だ、集中できない……)

手を止め、佐登子は自分の指先を見つめた。

仕事が手につかないのは経営難だけが原因ではなかった。

昨日の昼休み、トイレの個室で見た、あの細長い検査薬が頭から離れない。

うっすらと浮かんだ線。結婚15年で初めての妊娠。目の当たりにしたとき、佐登子の心は一瞬華やぎ、その直後急速にしぼんでいった。やがて胸が苦しくなり、誰にも見られないよう厳重に封印してゴミ箱に捨てた。遠ざけたからと言って現実が変わるわけではないのに。

そのとき、事務所の扉が静かに開いた。雄大が検査帳票のバインダーを手に入ってくる。視線も合わせないまま、無言で机の横に立った。

「次のロット、材料入るの明日ね。今日のぶん、歩留まりぎりぎりだから気をつけて」

佐登子が言うと、雄大は一度だけ小さく頷いた。

「2番の旋盤、送りがちょっと甘い。木戸さんと段取り見直す」

それだけ言って、帳票を机に置いて出ていく雄大。

事務所にまた静けさが戻った。機械の音と、ノギスのカチリという音が、湿った空気の中で輪郭をつくっていた。佐登子は、画面に映る赤い数字を見つめ直しながら、背筋を伸ばして再びキーボードに手を置いた。