上司からまさかの提案
温厚で人当たりの良い彼は、大らかに見えて実はとても鋭い。智子は視線を落とし、しばらく逡巡したあとで小さく息を吐いた。
「実は……夫の人事異動が決まって」
そこから一気に話した。夫の栄転が出ていること。勤務地が遠方で、話を受けるなら単身赴任か家族帯同かを選ばなければならないこと。智子にも仕事があって、息子もまだ小さく、転園先もなかなか見つからないこと。話しているうちに声が震えた。必死で感情を抑えたが、どうしても喉の奥が熱くなった。
上司は柔和な表情のまま、黙って聞いてくれていた。智子がすべて吐き出したあと、しばし沈黙が流れた。
「……なるほどねえ」
彼はカップをデスクに置き、腕を組んだ。
「それなら、フルリモート勤務を検討してみない?」
「え?」
耳を疑い、思わず聞き返す。
「普段の仕事は全部、自宅でできるようにすればいいんだよ。イベントの現場だけは出張してもらうけど、その交通費は会社が全部負担するってことで。新幹線でも飛行機でも構わないよ。必要な経費だからね。社長に掛け合ってみるよ」
信じられなかった。前例のない待遇だ。智子は慌てて首を横に振った。
「でも……そんな、私だけ特別扱いなんて。他の人から不満が出るんじゃ……」
上司は少し笑った後、珍しく真剣な表情で言った。
「大丈夫、文句は言わせない。西山さんは、会社に必要な人材だよ。単に数字のことだけじゃなく、チームをまとめる力もある。君がいなくなったら困るのは会社の方なんだから」
胸の奥が熱くなった。
誰かにこんなふうに評価してもらったのは、いつ以来だろう。今のご時世、仕事と育児の両立をしている人などいくらでもいる。だから智子も、ただ必死に、目の前の問題をこなしてきた。でも、努力する姿をちゃんと見てくれていた人がいた。しかもこんなに近くに。
「……本当に、いいんですか」
「もちろん。西山さんの功績を考えれば、正当な待遇だと思うよ」
温かい言葉が胸に響き、涙がこぼれそうになった。慌てて目を瞬き、笑顔を作る。
「ありがとうございます……よろしくお願いします」
「オーケー。じゃあ、そういう方向で」
ひらりと片手を上げて自席へ戻っていく上司の背中を見ながら、智子は肩が一気に軽くなったのを感じた。