夫が語った真意

土曜日の朝、いつもよりゆっくりとした時間が流れていた。窓の外では、薄い雲を透かしてやわらかな日差しが降り注いでいる。コーヒーをマグカップに注ぎ、茜はリビングのテーブルに置いた。

「ありがとう」

俊也が短く礼を言い、マグを手に取った。湯気の向こうに見える彼の顔は、少し疲れている。

和毅は部屋にこもったままで、昨夜から顔を見せていない。

沈黙が気まずさを増幅させる前に、茜は切り出した。

「ねえ、昨日のことだけど……」

俊也は視線をコーヒーに落としたまま、黙っている。茜は深呼吸して、声を整えた。

「正直驚いたけど……私はできることなら、和毅の気持ちを叶えてやりたいと思ってるの」

俊也がゆっくり顔を上げる。その目には、反論の色がにじんでいた。

「……現実を考えろよ。あいつの成績じゃ、まともな大学なんて……」
「わかってる。でもね、今まで和毅が自分から何か“やりたい”って言ったこと、あった?」

問いかけると、俊也は言葉を失って固まった。

茜は静かに続ける。

「今回、初めてなんだよ。あんなにはっきりと“やってみたい”って言ったのは。それを無視するのは、親としてどうなんだろうって思ってさ……」

しばらく沈黙が続いた。

俊也はコーヒーを一口飲み、ため息をついた。

「……お前には、わかんねぇよ」

その声は低く、かすれていた。

「俺が、どんな思いで働いてきたか」

茜は黙って耳を傾ける。俊也は、膝の上で拳を握りしめた。

「高卒だからって、どれだけ舐められてきたか。大卒のやつらに、何度も見下された。俺より仕事ができない大卒の連中が俺よりも給料をもらって出世していくのを何度も見てきた。“学歴”ってやつが、どれだけ重いか、嫌ってほどわかってる」

言葉を吐き出すたび、俊也の肩が小さく震えていた。

「それなら、なおさら和毅を大学に……」

「大学に行かなくたって、立派にやっていけるだろう。あんな人を見下すような連中と同じにならなくたって、別に」

俊也はそこまで言うと、視線を落とし、唇をかんだ。

きっと和毅の思いを頭ごなしに否定した俊也の言葉は、苛立ちによるものではなく、不安からくるものだったのだろう。ようは寂しかったのだ。あの頑なな態度の奥にあった孤独と、劣等感に、茜はやっと気づいた。

茜は彼の手に、自分の手をそっと重ねた。

「でもね、大学に行ったって和毅は和毅だよ。あなたを見下した人たちとは違う。それに大学に行かなくたって、いずれ和毅は私たちの元を巣立っていく。だから、親として精一杯のことをして、あの子を見送ってあげようよ」

俊也はしばらく黙っていたが、やがてぼそっと呟いた。

「……どうすればいい?」

不安げな問いかけに、茜は微笑んだ。

「まず、3人で話そう。和毅の気持ちをちゃんと聞いて、私たちの気持ちも伝えて。これからのことはそのあと、一緒に考えればいい」

「分かった。和毅ともう一度話そう」

テーブルの上で、冷めかけたコーヒーが湯気を失っていた。でも、胸の奥には、かすかな温もりが戻っていた。