山登りを楽しみにしていたのに……
「じゃじゃーん、見てくださいこれ」
昼休みの食堂で、輝子はスマホの画面を同僚たちに見せた。
登山初心者に必須の“三種の神器”──登山靴、レインウェア、ザック。〆て8万円。木波さんからはレンタルで構わないと言われていたが、輝子は思いきって一式をそろえた。
新しい趣味ができる予感に舞い上がっていた。
「すごい、全部そろえたんですね!」
「え、これ本格的じゃない?」
「思いきったなぁ、佐藤さん」
にぎやかな声が飛び交う。木波さんも笑ってうなずいた。
「おお、いいですね。靴もちゃんとミッドカットで、グリップも良さそうだ。これなら多少のぬかるみも平気だと思いますよ」
褒められて嬉しい。まるで先生から花丸をもらったような、くすぐったい気持ちだ。
「どうせなら形から入ろうと思って」
少し照れながらそう言うと、みんな笑った。
「気合十分だな」
「これは、なんとしても登頂しないとね」
「あーあ、私も自分のが欲しくなってきた」
それからの数日間、輝子は登山の初心者向けブログを読み漁り、YouTubeで山歩きのコツや装備の使い方を予習した。夜な夜な鏡の前でレインウェアを着て、ザックの中身を何度も詰め直した。自分でも滑稽だと思うほど、熱が入っていた。
そして登山を翌日に控えた金曜日を迎える。
定時で仕事を終えた輝子は、心も体も軽やかに駅のホームへと向かっていた。
すでに靴も防水スプレーをかけて準備万端。あとは寝るだけ。そんな気分で、階段を降りようとしたとき――。
「――っつ!」
輝子の視界が右側に大きく傾いた。視界が下がり、地面に膝を打ち付ける。恥ずかしさもあってすぐに立ち上がろうとしたが、右足に鋭い痛みが走り、輝子は立ち上がることができなかった。
どうやら階段を踏み外した拍子に足首を捻ったらしい。なんとか立ち上がり、家までの道を足を引きずるように歩いた。
帰宅後、とりあえず患部に湿布を貼り、ソファに足を投げ出して座った。痛みはあるが、歩けなくはない。腫れもそれほどではない。
だが、山登りとなると話は違ってくる。
「やっぱり行くべきじゃないのかな……」
呟いた自分の声が、リビングの静けさに落ちた。でもすぐに頭を振る。
「いや、違う。やっと見つけたんだ、何かに夢中になれるきっかけを」
輝子の中で、不安と期待がせめぎあった。
もう7月、今年の半分が終わった。何年も代わり映えのしない日常を過ごして、空虚さに苛まれる日々。これ以上、後回しにしたくなかった。
鏡の前に立ち、もう一度登山靴の紐を結んでみる。多少の違和感はあったが、不思議と痛みは治まったように思えた。
幸い登山の翌日も会社は休み。多少無理をしたとしても、何とかなるだろう。登山が終わったあとで病院に行けばいい。
輝子はひとり、大きくうなずいて眠りについた。
●翌日、輝子は集合場所の駅に向かう。痛みは引いたわけではなかったが、登山が始まると、鮮やかな自然の美しさや興奮もあってか不思議と痛みは感じなかった。だが、もちろん、そう、うまくはいかない。山を歩いていると次第に雲行きが怪しくなってきた。そして輝子はぬかるむ地面に足を取られ、わずかに足を滑らせた瞬間、爆発するような痛みが襲い……。後編:【「人間関係が最悪の職場で…」アラサーで一念発起し登山に挑戦も、ケガで倒れた女性に先輩登山愛好家が伝えたこと】にて詳細をお届けする。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。