ついに夫と向き合い

寿子はじっくり考えようと思っていた。そして考えているうちに、まあこのままでも仕方ないかと現状維持に甘んじる心持ちになっても構わないとも思っていた。
その日、授業で使う発表用の資料作りで遅くまで大学に残っていた寿子が家に帰り玄関の扉を開けると、待ち構えていた夫がいきなり声を荒げた。

「飯の用意もしないでどこをほっつき歩いてんだ!」

「どこって、今日は授業の発表のための準備があるから遅くなりますよって言ったじゃないですか」

強く掴まれた腕をなんとか振りほどこうとしながら、寿子は夫に訴えた。

「関係ないだろ。自分が好き勝手遊んでるんだから、やることくらいきちんとやれ!」

「わ、私はあなたの奴隷じゃないんです!」

寿子は大声を出し、とうとう夫の手を振りほどいた。

「あ、あなただって、接待で遅くなることくらいあったでしょう。1度だって連絡してきたことなんてありませんでしたよ。私はいつも、いつ帰ってくるのかもわからないあなたを待って、食べてもらえるかもわからないお夕飯を作らされてきたんです」

「お前、俺に口答えするのか? 大学で少し勉強したくらいで、偉くなったつもりか?」

「ええ、偉くなったつもりです。あなたが知らないことも、考えても分からないことも、たくさん勉強してるつもりです」

夫はしわだらけの顔を赤く染め、拳を振り上げた。寿子は肩をすくめ、目を閉じた。

「わ、別れてもらいますからね!」

「は?」

恐る恐る目を開くと、拳を振り上げたまま夫が目を丸くしていた。寿子は自分が口走った言葉に自分でも驚いていたが、1度吐いた言葉はどうしたって呑み込むことができないことは理解していた。

「もう、別れてください。耐えられないんです。あなたの横暴な振る舞い」

「な、おま、何を……」

寿子は呆気にとられている夫の脇を抜けて寝室に向かい、荷物をまとめた。とはいえ、これまで娯楽なんてなかった人生だ。この家に持っていきたいものなんてほとんどなかった。

「おい、本気か?」

「はい。今までお世話になりました」

売り言葉に買い言葉の勢いであることは否定できなかったが、寿子は夫に頭を下げて家を出た。なるべく足早に、もう後戻りできなくなるように家から十分に離れたあと、次男に電話をかけた。

耳元で鳴るコール音をかき消すように、寿子の心臓が鳴り響いていた。身体が熱をもっているせいか、夏の夜の風はひんやりと心地よかった。

※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。